Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

藤江の里物語④ 「白雪楼」思い出記

    1853年春3月、豪農山路機谷(やまじきこく)は鞆の浦にて「未開牡丹」を冠した漢詩の会を主催したことは前のブログで書いた。

    その中で「白雪楼」の数奇な運命について記したが、白雪楼が藤江の里にあった期間は、単に詩文(漢詩)を講究する場ではなく、幕末に向かう日本の行くべき道を模索した愛国の志士の秘密の情報交換の場ともなったのではないか、と私は見ている。

    非常に特異な外面と性格の人物として知られ、幕府から危険視された森田節斎を機谷は6年間藤江の里に一軒の家を建ててかくまったという記録がある。一時期だが吉田松陰の師ともなった人物である。機谷は節斎から古文辞の手ほどきを受けたようであるが、思想的な影響もあったと思われる。生涯居を転々として居場所を定めなかった森田節斎が6年間も藤江の里に滞在したことは、一種の奇跡と言える。

    M氏によると、長州の久坂玄瑞が節斎から学びまた語り合うために藤江の里に来たという記録もあるとのこと。

    幕府から追われ、森田節斎は藤江の里以降、姫路や倉敷等を経て、最終的には紀州(和歌山)の粉河(こかわ)の地に行き、同士によって幕府の暗殺を免れて生涯を終えたようである。

 

 

 

※誠之館人物誌 「森田節齋(森田節斎)」 幕末の漢詩

https://seishikan-dousoukai.com/archive/jinmeiroku/morita-sessai/morita-sessai.htm

 

    白雪楼は京都黒谷から藤江に、そして竹原へ、そして現在は呉市下蒲刈町に移築され大切に保存公開されている。私の郷土史研究の先生であるM氏と連れだって二度ほど訪れたことがある。

    はじめは一階建てであったが、機谷によって二階建てに改築改装された。

    機谷が愛した茶室であり、多くの漢詩人や志士たちが訪れたという。どのような論談外交、詩文の研鑽、接待の場となったのだろうか、当時の様を思うと興味が尽きない。

 

    数年前ある日埼玉に住まれるSさんという方から突然M氏に電話が入った。実はSさんの奥様が、山路家の本家にあたる「表山路家」の出身であられると言うのである。

 

    Sさんは初め電話を公民館にかけたという。公民館では山路家について聞かれてもわからないので、近くの浄土真宗のお寺を紹介されたという。そのお寺に電話するが、詳しく分かる人がおらず、でもふるさとの歴史のことならいろいろ研究しているM氏がいるので、M氏に聞いたらきっと分かるのではないかと紹介され、最後にM氏のところに電話をしたというわけである。地域のネットワークの素晴らしさが発揮されたということであろう。

 

    ご自分のルーツを知りたくていろいろ調べるうちに、福山の藤江に山路家が江戸時代拠点を置いて豪農としてさまざまなことを成していたので、いろいろ秘密が解けるのではないかとのことだった。

    福山の沼隈町深草(ふかくさ)に親戚筋にあたる方がおられ、そちらにも連絡をとって聞いたりしているとのこと。(かつて沼隈村と千年ちとせ村があり、合併して沼隈町となった。深草はかつての千年村のほう、少し行くと常石造船があり、また内海大橋を渡ると田島と横島からなる内海町に至り、風光明媚なところである。)

 

    ・・・やがてSさんはご夫婦で福山まで先祖のルーツを探すためにやって来られた。二度目に来られた時私も一緒に会い、山路家の菩提寺であるかつての沼隈郡山南(さんな)村(現在は福山市沼隈町上山南)にある悟真寺に案内してさしあげた。

    前もって「藤江の里の歴史的背景を見つめて(山路機谷について)」の一文を私はご住職に差し上げて以来顔見知りであったこともあり、突然伺ったにもかかわらず快く迎えてくださった。

    ご住職が奥から出してこられた過去帳を見せてもらいSさんの先祖の名前を確認することができた時は、みんなでとても驚くと同時にSさんはとても喜ばれた。

    その後Sさんの先祖のルーツを探す旅はいろんな方面に手を広げられ、遂に2冊ほど自叙伝的な本を書き上げ、発行されるにまで至るのである。その情熱と行動力には脱帽させられる。Sさんの奥様(表山路家の方)の出身は広島で、親戚に前衛画家の山路商がいると伺っている。

 

    私が二度目Sさんにお会いした時は、下蒲刈まで私の運転でドライブし、四人で白雪楼を訪れた。

    白雪楼では、こういう理由で福山の藤江から来ましたと受付の方に説明すると、わざわざ館長さんが少し離れた事務所のほうからやって来られ、しばし談笑する和やかな時間を共有することができた。

 

    物言わぬ白雪楼。機谷が愛した風雅な茶室であり、隅々まで意匠が凝らされ、まるで物言うかのような純粋な日本建築の木造の温もりが感じられる白雪楼。

    何か言ってごらんと問いかけたならば、一体どんなことを語り出すだろう・・・とふと思った瞬間、忽然と涙が溢れ出し、やがてその慟哭のような感慨からメロディーと言葉が立ち現れて、一曲の曲となった。

    その歌が下記、楽曲「白雪楼」である。

 


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