Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

ホタルの里の物語② 「ひまわり学級の歌」

T君との出会いについては藤江の里物語⑤で少し書いた。

https://historyninjin.hatenablog.com/entry/2021/05/28/022058

一応ここにその部分のみを引用しておこう。

                                ◆

服部小学校に正式に赴任する2年ほど前、ご自分の母親の介護をしなければならない先生のピンチヒッターとして6月から8月までの3カ月の間、服部小学校で特別支援学級の担任をしたことがある。

    その時に受け持ったT君とは一緒に地元の童謡を歌おう会で歌ったり、小学校で開かれた地域のお祭りで歌ったりして、その後長い付き合いになる。

    服部小学校から別の小学校の担当となり、通常学級1年生15人の担任をしていたが、1年ちょっとしてある日の夕方、T君が妹と一緒にお母さんと私のいる小学校にやって来た。

    なぜやって来たのかわからなかった私は黒板にニンジンの絵を描いたり、どうした今元気かと聞いたりわいわい話して笑ったりしていた。やがてお母さんがT君に言った。「今日先生に言いたいことあってきたんでしょ。ちゃんと自分から言いなさい」と。

    それまでいつもと変わらないように見えたT君が急に神妙な顔になりおどおどした様子で口ごもった。何度かお母さんに急かされて重い口を開いた。

    「先生、ぼくの担任になってください」と。

    私は一瞬目が点になった。そんなこと言われてもそんなことあり得ないじゃんと、答える言葉がなかった。しかし、彼は真剣な様子。どうしてですか?とお母さんに聞いて、いろいろわけを教えていただいた。

    詳細は省くが、その翌年、お母さんと電話で話した。私は言った。「ダメもとで結構です。校長先生にT君のことを相談して、頼んでみてください。私は、服部小学校に行くようにという人事があったら、喜んで受けますから」と。

    どこでどう話がついたのか、私は知らない。臨時採用なので異動は早い。3学期が終わって普通の先生たちの人事が発表されて数日経ったある日、教育委員会の学事課から電話が入った。「次の任地は服部小学校でお願いできますか?」と。服部小学校が111年の歴史に幕を下ろし閉校になる最後の年、わたしはT君の担任になることができた。

    T君もお母さんも踊り上がらんばかりに喜んだそうだ。

                                ◆

 

ピカピカの1年生二人を迎えて5年生のT君と3人で新しく「ひまわり学級」が始まった。60を越えた半ばおじいさんみたいな先生と5年生1名、1年生2名、合わせて4人のデコボココンビのような明るくやかましい学級が楽しく始まった。

 

2年前、臨時でひまわり学級を受け持った当時、子供たちの間(6年生のA君、3年生のT君、2年生のB君)で「にんじんファミリー」がフィーバーした。

連絡帳には毎日必ず、にんじんファミリーのどれかのキャラが登場して、クラスの様子などをそれぞれの家庭に伝えるメッセンジャーのような役割を果たすといった具合だ。


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6年生のA君は大の歴史好きだった。どんどん自分から勉強して私はすごいなーと思っていた。けれど、鎌倉時代の授業の時ばかりは私の「にんじん節」が唸りをあげた。元寇のときの北条時宗の決断によって凄まじいばかりに鎌倉武士が祖国日本の防衛のために戦った様を、私は史実に従ってまざまざと見てきたように語った。

決して「神風」によって奇跡的に勝ったのではなく、鎌倉武士が組織的に連携しながら、死に物狂いで戦ったから、蒙古軍は怯んで上陸を躊躇するようになったこと、二度目の時は万全の補給体制と約20キロメートルに渡る鉄壁の防塁を築いて上陸を阻んだこと、そうして時間が経過してたまたま台風の季節に遭遇するようになったこと、海上の生活による栄養不足と疫病の蔓延により、さすがの蒙古軍(といっても大半は奴隷にされた高句麗から強制的に前線に駆り出された兵士たちの寄り集まりの軍だったことがその実態)も戦意を喪失し、軍規を保てなくなり、撤退せざるを得なくなったことなどを私は熱く語った。

A君は目をキラキラ輝かせて聞いていた。ますます歴史の勉強に拍車がかかり、その後瞬く間に戦国武将たちの生きざまや勇ましい様についての知識は私を抜いてしまった。(^_^)

 

7月になり、まもなく夏休みに入ろうとするころ、A君は夏休みになると私がまた別の小学校に行くことがわかっていたので、40近くあるにんじんファミリーのキャラを全部連絡帳に描いてくれと迫ってきた。そればかりか、にんじんファミリーのキャラに信長と秀吉と家康をいれろと、自分でそのキャラをデザインして持ってきたのである。ちょんまげや衣装や表情をちゃんとかき分けていて、なかなかのものだった。

私はしぶしぶなんとか時間を作って連絡帳を2ページ見開き全部を使ってにんじんファミリーの全キャラをかいてあげた。





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1年生がホワイトボードに描いたにんじんとピーマンのメッセージ



 

同じく7月に入って少しした頃、たしか校長先生の進めだった気がするが「ひまわり学級の歌」ができない?と言われた。私はさらりとホタルの里のイメージを織り込んでひまわり学級の歌を作曲し校長先生に聞いてもらった。「緑の山や服部川のこと、ほたるの里がはいっていていい歌になりましたね。ありがとう」と言われた。子供たちと何度か歌って、私はそれでひまわり学級の子たちとはお別れだなと思っていた。


ひまわり学級の歌 on Vimeo

そこにA君が立ちはだかった。

キャラを全部かけと言っただけでなく、そのキャラ全部と信長、秀吉、家康までいれて、今度は「にんじんファミリーの歌」を作れと言ってきたのである。

絶対作って、必ず作って、作らずにはどこにも行かないで、お願い・・・と私に迫ってきたのだ。

 

全く発想もしていなかった作曲のオファーである。私は「えー!」と思ったきりまた目が点になった。「なんで?」とも思った。「そんなの無理だろ」とも。

けれども一晩経って次の日、ふと「そんなに言うのだったら・・・」と思い直した。そのようにして生まれてきたのが「にんじんファミリーの歌」だった。私は信長と秀吉と家康に続いて明智光秀を入れたいなと思って、「光秀くん」を加えて歌にした。(^_^)v

 

 

2年生だったBくんに2年後に再会するのだが、頑張って通常学級に編入してみんなと元気に過ごしていた。親しげに私に近寄ってきて、「あのー、ぼく・・・」と話し始めた。なんでも私がギターを弾いてるのをみてかっこいいなーと思ったんだ、とのこと。その後お家の人にお願いして今ギターを習ってるんだよ、とのこと。

また、私の目が点になった。嬉しいと言えば嬉しいけど、そんなにギター人口が増えたら私の出番がなくなるよ、とふと思って、ニヤリとした。(^ー^)

 

この時点ではT君の影は私にとっては薄かったなと思うのだが、T君はそんな私の姿を見ながら何かを感じていたのかなと思う。

     ~続く~

 

藤江の里の物語⑤に掲載したけど「にんじんファミリーの歌」を写真を変えてこちらにも載せておきます。

(^_^)/

 


にんじんファミリーの歌 on Vimeo

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