Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

星の光に思うこと


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父の遺言「前向きに生きる」の星空バージョンです。メロディーをつけて歌にしました。お聞きください。

 


星の光に思うこと on Vimeo

 

「星の光に思うこと」


どんな時も 前を向いて

遠いはるかな あの光は

私たちを見て 微笑んでいるよ

手をふっているよ ほら

心を開いて歌を歌えば

ほらいつもどんな時にも

明るく光っている

心の中で


どんな時も 前を向いて

遠いはるかな あの光は

私たちを見て 微笑んでいるよ

手をふっているよ ほら

心を開いて歌を歌えば

ほらいつもどんな時にも

明るく光っている

心の中で


どんな時も 微笑んでいる

どんな時も 前を向いて

遠いはるかな あの星の光

 

どんな時も 前を向いて

遠いはるかな あの光は

私たちを見て 微笑んでいるよ

手をふっているよ ほら

心を開いて歌を歌えば

いつもどんな時も

明るく光っている

心の中で


どんな時も 前を向いて

遠いはるかな あの光

愛の光よ

 


作詞・作曲  2022/6/15  Historyninjin

 


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断章「星の光に思うこと」

 

星の光は命の光

星の光は希望の光

星の光は愛の光

小さなことに躓いていては

生まれてきたことの意味がない

あんなにきれいな星の光が

あんなにたくさん応援している

こんなにたくさん命があふれ

こんなにたくさん歌がある

星の光は愛の歌声

星の光は命の光

みんなで手を振り歩いていけば

光に包まれ歌があふれる

命の歌は

星の光

星の光は

愛の光

 

・・・そんなことをふと思いながら、先にイメージが展開してメロディーが出てきました。出てきたメロディーにイメージを重ねて歌詞をつけました。はじめは1回だけ歌って終わるつもりでしたが、録音しながら何度か続けた方がいいなと思い、録音を継続しました。少し最初の歌詞にプラスアルファして録音が終わりました。真夜中の私の部屋(本人は書斎兼スタジオのつもり)でのお話。(^^ゞ

 

(^_^)

 

2022/6/15 記

 

 

追記(2022/7/30、娘の誕生日)

ふと心の中からあふれるようにしてこの「星の光に思うこと」を作曲することができました。実はそれを前後して、私はウイグル詩「私はもう知っている」を改訂して改めて作曲し直し、時間をかけながらその曲の楽譜を清書していました。

 

「私はもう知っている」の最初の作曲は今年の2月初めになされていました。あ、できたと思い、あまり深く考えないで、しばらくそのまま下書きを眺めたり、メロディーを口ずさんだりして、これでいいかな?と考えていました。

 

ただ、今一つ自信が持てず、作曲したのはいいのだけれど、この詩にこのメロディーでホントにいいのだろうか?という感覚を覚えたので清書して録音するのを躊躇(ためら)っていました。

 

そうするうち、突然2月24日、ロシアがウクライナに軍事作戦を展開したというニュースが駆け巡り、そのことに強い関心を覚え、真相はどうなっているのかと思うと、この詩への作曲のことが心の中から消し飛んでしまい、必然的に「私はもう知っている」は未完成のまま、中断されてしまうようになってしまったわけです。

 

時間だけが過ぎていきました。1カ月、2カ月・・・3カ月になろうとするころ、ロシアとウクライナの紛争にようやく終結(?)の兆しが見えてくるようになって、私の心も、中断していた作曲に、再び取り掛かろうと思えるようになってきました。この間、砂を噛むような期間でした。胸騒ぎがし真相を求め落ち着かず、ウイグルの詩に対しては作曲が手につかず、彷徨うような期間を通過していきました。こんな体験初めてのことでした。

 

ようやく中断していた作曲を再開しようと、最初に作曲したメロディーの下書きを声に出して歌ってみました。なんと情けないほど、詩と乖離したメロディーだろうと直感し、これじゃとてもダメだと思い、大幅に手直しを始めました。一小節、一小節、楽譜をはいつくばるようにメロディーを探し、探しては書き込み、書き込んではまた訂正し、訂正しては煩悶し、少しずつほんの少しずつ、失ってしまったこの曲を作曲し始めた時に感じた感覚を思いだし、取り戻す戦いのような歩みがなされていきました。どうしてこうなるのか、訳がわかりませんでした。

 

イスラム教のお坊さんが出てくる場面では、何度も何度もその場面を心に描き、この詩の作者の思いを考え、荒野に行こうか、何をしたらよいのか、私はどうなのか?複雑に交錯する想念の葛藤の苦しみを思いながら細々とメロディーを紡ぎだしていきました。一言の言葉の意味が分からなくて、何度も立ち止まって考え込み、いつ果てるともわからない荒野のような暗い道をぽつぽつ、あっちに行ったりこっちに行ったり、そんな日々が過ぎていきました。

 

カシュガル師範大学で学んだ女性が近頃死んだという詩の部分では「あの時代」という言葉がでてきます。ウイグルの独立を目指す人々に対して、おそらく中国共産党政府が過酷な血の弾圧を加えたことが彷彿とします。1万人以上が殺されたと言われる中国北京の天安門事件のような極限の世界を描いているのだろうなと思います。そのような時代を「愛」という言葉で括りながら、命を落とした同胞を思って、作者は慟哭の世界を彷徨ったに違いないと私は思います。

 

第一連がようやく、これでいいだろうと固まると、その後の事は考えず、まずはそれだけを清書して、それが終わると次、というようにして進めて行くしか方法がありませんでした。

 

そんな時に、ふと「星の光に思うこと」が生まれてきたのでした。それを合図に「私はもう知っている」の作曲の方もだいぶ安定し、やがて楽譜の清書もついに完成するようになりました。

 

私の心の中では、そのような理由で、この二曲はまるで兄弟のような曲となりました。「星の光に思うこと」が生まれて来なかったら、「私はもう知っている」はもっと暗礁に乗り上げていたでしょう。同時に、「私はもう知っている」を試行錯誤しながら作曲していなかったならば、おそらく「星の光に思うこと」は生まれて来なかったでしょう。この二曲は、私にとってはどちらが先ということも言えない、兄弟のようなペアなのです。

 

かたやウイグルの詩、かたや日本で生まれた詩。詩の深刻さから言ったならばウイグルの詩の深刻さはとてつもなく、それに対して宇宙に飛び出す愛の世界にまで広がるかのような「星の光に思うこと」は、あまりにも観念的過ぎるきらいがありますが、そのような世界はウイグルの詩には見られないものです。どちらがよくて、どちらが優れているというのではなく、私にとってはどちらも同じ私から出たもので両方ともそのまま置いておきたいものなのです。

 

そんな心情の世界をかいくぐってきたのがこの二曲です。どうか「私はもう知っている」にも耳を傾けて見てください。

 

◆「私はもう知っている」

https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2022/06/18/130042


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今日は娘の誕生日。1986年7月30日、早朝、家内は前日夜から始まった陣痛の中、極度の妊娠中毒とおそらく陣痛促進剤の作用のため、意識を失い痙攣を起こし、呼吸、心臓ともに停止し(子癇発作)、緊急手術。看護婦が私に一通の書類を手渡し、サインをしてくださいと持ってきた。病院の判断や処置等に対して一切文句を言いませんという誓約書。私はすぐにサインをし、運を天に任せた。というか、それしかできなかった。

廊下でずっと待っていた。ふと神がおられるならばこんなとき、どうするだろうかと考えた。考えても結論のでる問題などでないことは承知していた。私は祈るともなく祈った。

 

「神様、すべてはあなたのみ心のままに。生きるのであれば生かし、死ななければならないのでしたら、そのように。私は一切あなたに文句を言いません。私は私に与えられた運命を甘んじて受け、そして悲しみの中で感謝します。すべて、あなたの思いのままに。ただ生きるのがあなたのみ心であるのなら、生かしてください」と。

 

ずいぶん時間が経った。場所は大阪。梅田の近く、阪急十三(じゅうそう)駅のすぐ近くにある済生会病院豊中の個人病院に通っていたのだが、出産前の最後の検診で女医さんが妻の足をスカートの上から軽く触れた時、妻が思わず「痛い!」と声を張り上げたことにより、重度の妊娠中毒症にかかっていることがわかった。

女医さんは「とてもうちのような個人病院では扱えない、紹介状を書くからそちらに行って」と言われたとのこと。

 

 


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すぐに準備して梅田の済生会病院に入院。出産を調整するために打った陣痛促進剤が家内の体質に合わなかったのだろう。夜半から陣痛と意識混濁が始まり、私はずっと付き添って、その都度ナースステーションに連絡をいれたりしていた。明け方、ついに妻が返事をしなくなった。私は看護婦さんを呼んだ。駆けつけた看護婦はようすを見て「あら、大変」と言って、私を廊下に出し、妻を集中治療室に移動。中で、数人の看護婦さんたちの騒ぐ声と物音がした。

 

やがて駆けつけた医師がことの重大さを知り、緊急手術にはいった。

私にできることは、・・・ない。

廊下で一人事態を見守りながら、先祖のことを考え、そして神のことを思った。

 

その後、家内と娘は21日間入院の後にやっと退院。家内は後遺症で約1年間軽度の記憶喪失。私と家内のお母さんで娘と家内の世話をしながら、無我夢中の生活がはじまった。娘を養護施設に入れたらと言われ、そちらに出向いて一応書類の準備をしたが、家内がなんとか自分のことができる程度になったので、そちらを断り、お母さんと二人三脚で頑張った。

昼間は仕事、帰宅してから小さい娘と、もう一人大きい娘(家内)の世話。

 

私は何も考えず、何も思わないようにした。これが私の務めと思い毎日を過ごした。生きて帰って来てくれたことが、何よりもの神様のプレゼントだった。

 

娘は結婚し、現在4人の孫を出産し、懸命に生きている。私は、ただそれだけで、神様のプレゼントだと思っている。

 


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退院する時、婦長さんからきつく言われた、「もう絶対うちに来ないでください、大変だったんだから・・・。二人目は絶対作らないでくださいね、今度は死にますよ」と。きついが、暖かい配慮のこもった言葉であることはその目を見てすぐに分かった。

 

私はその言葉を信じて、そうすることにした。二人目は絶対作らないと。

 

1年経ち妻の記憶喪失も薄れ、言語的障害もかなりみられなくなってきた。2年経ち、3年になろうとするころ、家内が言った。「あたし、お兄ちゃんと弟が生まれたんだけど、二人とも未熟児でお乳が吸えなくて死んだのよ。あたしはお乳が吸えたので生きたの。だから、どうしてだかわからないけど、あたし、もう一人生まなきゃいけないような気がする」と。

 

私は目が点になり、肝を冷やした。そして反対した。

 

家内は黙って、何か考えているらしかった。よく遠くへ出かけることがあった。保健所や産科の医師などのようだった。私は苦々しく思ったが、黙って見ていた。

 

ある日京都の医大まで行ってきたという(当時私たちは兵庫県伊丹市に住んでいた)。そして言った。

「そこの、お医者さんがずうっと話を聞いてくれた。そして二人目の可能性はあると言ってくれ、大阪のある異常出産専門の施設を紹介してくれた」とのこと。「だからあなたもそこに行って、父親としての講習会があるから出なきゃだめなのよ」と言い出した。

 

途中経過は省く。

 

やがて、4年後(1990年)の5月2日、家内は大阪の和泉市にある母子医療センターで第二子、男の子を出産した。やはり出産時に痙攣が起こったらしいが、事前の医療的な調整で軽微でやり過ごすことができましたと担当医師が語っていた。

https://www.wch.opho.jp/

 

息子は現在結婚し、昨年男の子が誕生した。時々孫の子守りに呼んでくれる。私たち夫婦は、わいわい言いながら、孫と楽しく遊んだりしている。

 

「私はもう知っている」の詩の末尾には「神は自分で結んだ紐を、自分で解いてくれる」とある。ほんとにそうなのかどうか、私には分からない。

分からないけれども、ま、そういうことがあってもいいだろうな、という思いは持つようにしている。

 

最後に「私はもう知っている」の終結部分をここに置いておきます。お聞きください。

 

                                 (2022/7/30記)

 

 

     私はもう知っている

     私のアイシャム アブドワハヒットという名の

     叔母が唱えた言葉がある

   「神は自分で結んだ紐を自分で解いてくれる」

 


私はもう知っている(06)終曲 on Vimeo

 


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全曲は下記で聞くことができます。

https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2022/06/18/130042


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