さて。いよいよ本論?の「内海小学校はなくなるけれど」に入ってきました。(^-^)/
ふるさと学習の総まとめのため、私はご夫婦で内海町のことを小冊子にまとめたり、地域の方と協力していろんなイベントを催したりしておられる方をゲストティーチャーとしてクラスに招いて、ふるさとについて考えるひとこま1時間の授業を企画した。
快く企画に応じて子どもたちの前に立ってくださったご夫妻を前に、私は一曲の歌を子どもたちと一緒に歌ってプレゼントした。その歌が金子みすずの「なくなったもの」の替え歌でその授業のほんの数日前に作ったばかりの「内海小学校はなくなるけれど」という歌だ。
(^_^)
はじめはほんの軽いノリの曲のつもりで、新しく作曲するにはなんだか難しいなと思ったが、替え歌ならば子どもたちもメロディーを知っているし、歌いやすいかなという気持ちだった。
作って子どもたちと歌ったあとも、もうこの場だけでこの歌は終わりだろうなという感覚でいた。
歌というのは不思議なものだ。内海小学校はなくなり、私の任地校も昔勤めた福山の市内の他の小学校にかわり、特別支援学級であわただしく新しい環境になれようと四苦八苦していた。
そんなある日、帰りの会でたまたま子どもたちに歌を披露した。その歌の中に「内海小学校はなくなるけれど」を何気なく入れたのだ。
するとクラスのみんなからアンコールがかかり、見よう見まねで歌いだしたのだ。
時々歌の時間をもてるときはギターを出して歌ってあげるのだが、決まってこの曲にアンコールがかかる。なにかわからないけれど、心を引き付けるなにかがあるのだろう。なくなって消えていくものを、忘れちゃいけないと思う人の心に自然に働きかけるからなのかな、と私は思っている。
子どもたちに、ほんとはこの歌はもともと「なくなったもの」という金子みすずの友だち豊ちゃんのことを歌った歌なんだよと話したら、今度は豊ちゃんて何才?とか男の子?とか、どうして死んじゃったの?先生とも友だち?とか、ひとしきりわいわいがやがや、納得させるのに一苦労。(^_^)
私は天国にいる豊ちゃんに言う、君のことみんな、わすれないよ、と。詩を通して出会った金子みすずにも私はこう言う。あなたの人生は26年間の短い人生だったけど、あなたの詩をとおして、あなたのことを思い出す子どもたちがたくさんいますよ。すてきな詩を残してくれて、ありがとう、と。
福島の須川町に住んでいた時(5~6才の頃)、私はある日、桶の底の木切れを使って、釘を打ち付けて小さな簡単な舟を作った。得意になって一人で川原に下りて行き、進水式よろしく川に浮かべたのはよかったが、速くて豊かな水量の流れに乗って、その舟はどんどん手元を離れて遠くへ流されて行ってしまった。
川に入れば溺れてしまうと思った私は、悔しい思いを抱きながら呆然と見守るしかなかった。
夜、夏の堀ごたつにひっくり返りながら、昼間なくなってしまった舟が今頃、月夜の下を流されているだろうなと考えると、ぽろぽろと流れる涙を止めることができなかった。
今もその時泣いた感覚をまざまざと思い出すことができる。「夏のなぎさでなくなった、おもちゃの舟は、あの舟は・・・」という金子みすずの詩をはじめて読んだとき、わたしの心の中にはあのなくなってしまった木切れの舟が涙の中に蘇り、再び月夜の下を流れ始めたのだ。
最後の曲は、内海小学校はなくなるけれどと豊ちゃん、のコラボです。(^-^)/
内海小学校はなくなるけれど
いつかみんなでまた会おう
一緒に学んだ小学校
楽しく遊んだ仲間たち
内海の島の小学校
思いではいつまでもこの胸に
歌声はいつの日もよみがえる
いつか指切りしたけれど
あれきり逢わぬ豊(ほう)ちゃんは
そらのおくにへかえったの
蓮華の花のふる中を
天童たちにまもられて
あれきり逢わぬ豊ちゃん
そらのおくにへかえったの