Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

ホタルの里の物語③ 幕間・間奏曲「金子みすず」

子供たちと歌う歌の中でも、一番にんじん先生らしいと思われているのが、金子みすずの詩にオリジナルのメロディーを添えた歌だろう。

 

何かの本のコラム記事で金子みすずの詩に初めて接した。ちょうど20年ほど前、2000年の12月のことだった。心にピンときてすぐに図書館に行き、金子みすずの詩集を借りてきて目を通した。

 

夜だった。本を開いて文字を追った。

所々心に何かを語りかけるような言葉が目に入る。

ピンときた詩から読み始めるという、行き当たりばったりのような読み方だ。

いきなりページを繰って途中から読むこともあり、文字を目で追いながら、ふと立ち止まるというような読み方も。読むというより眺めるといったところか。

 

「見えないもの」に目が引かれて読んだ。すると読み終わるか終わらないかのうちに言葉に抑揚がつき始め揺らぎだす。次第にそれがはっきりしたメロディーになって心の中を巡り始める。不思議な感覚だった。

 

すぐに反射的にノートを出して自分で五線を引いてメロディーをメモし、その音符の下に詩の言葉を書き込んだ。ものの15分か20分ほどだろうか、一曲の曲が出来上がった。

出来上がった曲をさらに簡単な挿し絵を添えて丁寧に清書するとなかなかいい。


f:id:historyninjin:20210613064744j:image

金子みすずが僅か26歳で、詩作に反対する夫に離縁を突きつけられ、子どもを夫にとられてしまうという悲しみの中、その悲しみに一種の諦めを持って耐えながらその日、幼い娘と一緒にお風呂にはいってあげたという。

いつものようにたわいのないお話をしたという記憶があることを娘さんが何かで書いていた。

そしてその晩、みすずは自らの命を絶ったのだ。

幸の薄い人だったということが、詩集の扉かどこかに書いてあった。

初めて知ることだった。

 

ふいに「わらい」という詩が目に止まった。こんな詩だ。

                   ◆

 

それはきれいな薔薇いろで、

芥子つぶよりかちいさくて、

こぼれて土に落ちたとき、ぱっと花火がはじけるように、

大きな花がひらくのよ。

 

もしも泪(なみだ)がこぼれるように、

こんな笑いがこぼれたら、どんなに、どんなに、きれいでしょう。

 

                   ◆

 

金子みすずのうつむいた姿を思い浮かべた。

 

詩を書いて東京の出版社に送ることを反対され、やめなければ離縁だと言われ、悪態をつかれ、脅され・・・そんな日常が目の前にありながらみすずは、「それ(笑い)は綺麗な薔薇色で、土にこぼれ落ちたら、ぱっと大きな花が開くのよ。」と誰かに向かって語りかけているのだ。

 

なんと孤独な詩人だろう。ふとそう思った。

 

するとまた、メロディーが揺らぎながら頭の中を巡り始めた。ノートを取り出し五線をするすると引いてそこに音符を書き込んだ。そして、詩の言葉を音符の下に添えた。

 

ポロリと涙がこぼれた。

 

また一曲出来た。不思議なことがおこり始めた。


f:id:historyninjin:20210613064834j:image

本を繰った、何ページか捲(めく)ると「犬」という詩のところで、目が吸いつけられた。

 

いつも「あんたらうるさいよ」とおこる酒屋のおばさんが、おろおろ泣いていたという詩だ。

その日のことをみすずは「うちのダリアの咲いた日に」と書いている。

日記のような詩だ。

 

「今日酒屋のおばちゃんがクロが死んだと言って泣いていたんよ、あはは」と学校(がっこ)で友だちと話したのだろう、おもしろおかしく話したのだと思う。

 

しかしふとした瞬間、酒屋のクロの姿を思ったのか、おばさんをばかにしたことに良心が咎めたのか「ふっとさみしくなりました」と言葉を結ぶ。

 

詩を読みながら私の心になぜか切ない思いが込み上げてきた。

 

きっとクロはおとなしく、子どもたちが通ると嬉しそうに尻尾を振ってくれる犬だったのだろう。

そんな素朴なクロの姿がもう見られなくなると思うと同時に、おばさんを笑ったことをいけないことだと感じたのかな・・・。

繊細な人間の心の機微を描いている。人間のおろかさが自分の内にもあることをみすずは素直に認め、見抜いている。

もしかしたらみすずはふと、酒屋のクロをある物言わぬおとなしい一人の人と見なし、そのクロの身の上を思って、ふっとさみしくなった・・・のかも知れない。

 

本当に見つめるべきものを見つめなかったり、大切にすべきものを嘲笑ったり、

人間はそんな矛盾したものを内包しながらも、それに打ち勝ち、たとえ打ち勝てなかったとしても、前向きに自らが良いと思うほうに向かって歩んでいかなければならないんだよということを、

暗に自分に、そして話のできる誰かに、言い聞かせ語りかけているのかも知れない。

 

                   ◆

 

うちのだりあの咲いた日に、

酒屋のクロは死にました。

 

おもてであそぶわたしらを、

いつでもおこるおばさんが、

おろおろ泣いて居(お)りました。

 

その日、学校(がっこ)でそのことを

おもしろそうに、話してて

 

ふっとさみしくなりました。

 

                   ◆

 


【弾き語り】犬 作詞:金子みすゞ 作曲:Ninjin Musics - YouTube


f:id:historyninjin:20210613062340j:image

 

夢中で五線を引き、音符と言葉をかきこんで楽譜にし、ギターを出してコードをつけた。

コードを奏でその音を聞きながら小さい声で歌ってみた。ポロポロ涙が溢れてきた。



涙をこぼしながら、そんな自分を見ていつも私は「これ、どうしてだろう?」と自問する。答えは「自分が感動したから、涙がこぼれたんだよ」ということになるのだろうが、それでも私は「どうしてだろう」と考えてしまう。

 

私が金子みすずに同情しなければならない理由は・・・ない。    今の今まで、私は金子みすずを・・・知らなかった。    この詩一つで、この詩を書いた人の人生の何たるかを全てわかるはずが・・・ない。

でも、なぜだかポロポロ涙がこぼれる。どうして?

・・・そんな感じだ。

 

頭の中の思索は多角的に展開して途切れることがない。まるで誰かと会話しているかのように、自分と対話をしているのだ。

やがて自分と対話しているつもりだったのが、そばに誰かいて話しかけるようになったりもする。我と彼の境がだんだん薄くなって、誰かと話している世界にそのままはいっていくようなこともある。

 

最近よく、主体的で対話的で深い学びの世界を子どもたちの教育の場において実現できるように、と現場でよく言われている。文部科学省が率先して日本の教育のあり方をその方向に先導しているのだ。

 

主体的になれるかどうか、自発的になれるかどうか、何をもってして子どもたちをそのように教育できるか、どのように接しどのように教育したらいいのか、それぞれの教師にその資格があるといえるのか、私はその入り口のところで、まだうろついている。

 

いろいろ未知の世界や疑問があるだろうに、金太郎飴のように「主体的で対話的で深い学び」という掛け声だけをかけたところで、どうにもならないのじゃないの?という素朴な疑問を私は感じている。

 

そんなに深刻で批判的で反発的な疑問ではない。金太郎飴みたいに飼い慣らされるのはいやだなと思っているだけの何というか私の「自意識」なのだろう。どんな時にも「私は私」という世界を持っていたいという矜持なのだ。きっとそうだ。十把一絡げでみんなと同じでいいよなんてとてもじゃないけど「いや」と思ってしまう、私の性(さが)なのだ、きっと。

 

クロと酒屋のおばさんをテーマにみすずの心の機微を描いた一曲の歌「犬」が出来上がった。

 

これで終わるかなと思った。もう3曲も作曲したから、一度に作曲した曲数で言ったら、今までの最高記録じゃない、そう最高記録だよ・・・。

そんなことを思った。

 

が、もう一つの声ならぬ声が心の中で語り始める「まだ詩はたくさんあるよ」と。手が動く。ページをめくる。言葉が飛び込んでくる。「私と小鳥と鈴と」。

 

とたんにメロディーがまた揺らぎながら頭の中で流れ出す。必死で書き留める。コードをつけてほっと納得する。

 

次は「土と草」。


【弾き語り】土と草 作詞:金子みすゞ 作曲:Ninjin Musics - YouTube


f:id:historyninjin:20210613062400j:image


次は「ぬかるみ」。

 

さらに次は「木」・・・といった具合だ。

「大漁」と「露」まで作曲したところで明け方になった。仕事がある。寝なきゃ、と急いで横になり仮眠を取った。

 

・・・一日の仕事を終え、帰宅して夕食を済ませるともなく気になって金子みすずの詩集を開いた。すると、また前日と同じことが起こり始めた。どうしてそうなるのか私には説明のしようがない。

 

「海とかもめ」、「おはじき」、「転校生」、「不思議」、「さびしいとき」、「草原の夜」、「見えない星」、「蜂と神様」、「世界中の王様」と続いた。また明け方になった。へとへとに疲れた。体を横にして寝ようと思った。

 

すると部屋の片隅のほうに人の気配がしたので振り向いた。誰もいなかったが、確かに人の視線を感じたのだ。うら若い女性の寂しそうな視線だった。私は誰もいない空間を目にしてピンと感じた。

金子みすずだと思った。

理由は説明できない。そんな感覚が心を打ったのだ。

 

そしてその誰もいない空間に向かって私は独り言を心の中で金子みすずに向かって唱えた「ごめんなさいね、つかれちゃったので寝ます。でも、みすずさん、あなたのことは忘れないで、また曲をつけてあげますからね、ちょっと寝ますよ・・・」てな感じ。

 

本当に疲れていたので布団に横になった。横になってほっとした瞬間、ほとんど同時に人の気配はいつの間にか消えていた。

だれもいない空間に一人身を横たえて、あれ?今の経験したこと、本当だったのかな?と不思議に思っていたら、いつの間にか寝てしまった。

 

何日かおいて、「お魚」、「げんげ」、「星とたんぽぽ」。また何日かおいて「巡禮」。しばらくして「なくなったもの」が誕生した。以来、金子みすずという詩人は私の心の中で、詩を介した友だちのような存在になっている。

 

子どもたちと歌うと決まって「私と小鳥と鈴と」が一番ヒットする。というか、たくさん歌えないので私が一番に歌おうとすすめるのが「私と小鳥と鈴と」だからかも知れない。(^_^)

言葉の音韻とメロディーのリズムがぴったりフィットしていて、心にすんなりと馴染むのだ。さらに後半のエンディングが叙情的なメロディー展開になっていて、音楽的にも飽きさせないからではないかと、私は思っている。(^_^)/


【弾き語り】私と小鳥と鈴と 作詞:金子みすゞ 作曲:Ninjin Musics - YouTube

 


f:id:historyninjin:20210613062417j:image

ひまわり学級1年生(*^^*)

私と小鳥と鈴と on Vimeo

ひまわり学級も「みんな違ってみんないい」という学級だったよということを申し添えておこうと思う。(*^^*)

 

追伸)2021/7/10「お日さん、雨さん」

https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2021/07/10/031635