Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

藤江の里物語① 山路機谷について

    2014年頃,備後の国藤江村の江戸時代後期の様子について,地元でこつこつと郷土史の研究をしてこられたM氏の示唆や指導を受けながら,自分で調べたことも加えて一文をしたためた。

    卒業する6年生にふるさとのことを忘れないでねというつもりで書いたもので,その後,M氏が高齢と健康上の理由のため,6年生のふるさと学習の案内で,地元の由緒ある史跡などを案内できなくなってから,このテキストを参考にふるさと学習が続けられていますよと,かつての同僚から聞き,書いておいてよかったなと思うようになった。

    ふるさとを見つめる視点のたたき台にしてもらえればいいなと思っている。

    この小論に付随して何曲かの歌(ふるさと歌物語のような構成になっている)があるが,今日は1曲だけ,「その咲くままにまかせよ」をアップしておくこととさせていただく。後日いろいろ紹介しながら考察を加えよう思っている。

※明日を生きる力,明日に向かう希望を感じ取っていただければ嬉しく思います。

 

            ◆藤江の里の歴史的背景をみつめて◆

                     (山路機谷について)

 

    山路機谷(やまじきこく)は,文化14年(1817年)に備後の国,沼隈(ぬまくま)郡藤江村に生まれた。吉本山路家(「吉本」は屋号)の初代である山路重信(忠平)の子として生まれるが,8才の時,岡本山路家に養子に入り,後,その七代当主となる。幼い頃より学問を好み,神辺の藤井暮庵(ふじいぼあん,菅茶山が開いた廉塾の都講を務めた人物)や,大坂(大阪)の碩儒(せきじゅ,深い学問を身につけた学者の意),篠崎小竹(しのざきしょうちく)に学ぶ。


f:id:historyninjin:20210523205456j:image山路機谷肖像

    岡本山路家の五代当主,重好が文人墨客と交わるために京都の黒谷に営んだ数寄屋作りの建物(奇好亭)が,重好の死後,機谷の後見として岡本山路に入った機谷の父重信により,藤江に移される。


    菅茶山がしばしばおとづれ,奇好亭から眺める松永湾の風光に感動し「遺芳湾」という名前で呼んだとされるのは,おそらくこのころであろう。藤江においても文人墨客たちに開放された奇好亭は,備後の一角における,文化交流のサロンのような場としての機能を果たすようになったことは想像に難くない。奇好亭は後,重信の死後(天保14年,1843年)少しして,機谷により,二階建ての楼建築に改装増築され,白雪楼と呼ばれるようになる。その白雪楼にも以前に増して詩文や思想を講究思索する仲間や文士たちが集まり交流するようになったが,その交友の範囲やレベルの高さには驚くべきものがある。


f:id:historyninjin:20210523205544j:image白雪楼(現在呉市蒲刈に保存公開されている)

 


f:id:historyninjin:20210528053303j:image菅茶山が遺芳湾と呼んだ松永湾。画面の中程に見えるのが山路家の墓碑群。

    機谷と志を分かち合った主な人物をあげれば以下のごとく,キラ星のような人々の名を挙げることができる。・・・江木鰐水(えぎがくすい),阪谷朗慮(さかたにろうろ),宮原節庵(みやはらせつあん),森田節齋(もりたせっさい),篠崎小竹(しのざきしょうちく),篠崎竹陰(しのざきちくいん),長尾秋水(ながおしゅうすい),河野鉄兜(こうのてっこう),頼三樹三郎(らいみきさぶろう),武井節庵(たけいせつあん),斎藤拙堂(さいとうせつどう),広瀬旭荘(ひろせきょくそう),萩田雲崖(おぎたうんがい),後藤松陰(ごとうしょういん)・・・。


    山路家は代々,藤江豪農であり,里正(りせい,村長または庄屋に相当する村落の長)をも務める家柄であり,本家(表山路家)を含め分家17軒を擁し,うち11軒が藤江にあったとされる。山路家のうち最も栄えた岡本山路家は貞享(じょうきょう)3年(1686年)に当時の福山藩主,水野勝種から松永湾(尾道の山波さんばから常石方面にわたるかなり広い範囲)の漁業権を拝領し,最大時,13カ村に渡る田地と塩田15箇所を所有し,財政規模が福山藩一藩とほぼ互角であったという。


    山路機谷は,その高い志操と豊かな財力により,私財を投じて現代で言う社会福祉事業を広く展開したことは特筆に値する。が,それは山路機谷一人に限ったことではなく,豪農としての立場をふまえた山路家全体の,里の人々と共に生きてゆくのだという,固い基本的姿勢が根底にあり,代々受け継がれたものであると考えられる。


    一例をあげれば,表山路家の八代当主,之保(これやす)は若くして里正となり,塩田を開いた。また,和船に使う帆布(ほぬの)をつくる木綿織の方法を広め,販路を開拓した。近郷の人々,とくに女性たちがこれに従事して農閑期における経済的収入を得ることができるようになったため,地域経済が非常に潤うようになった。之保はまた,天明年間に福山藩御用達の計吏(けいり,経理財政等をつかさどる官吏職と思われる)となって,寛政年中に苗字帯刀(みょうじたいとう,姓を名乗り刀を所持すること,武士に準ずる身分を認められたと解される)の許可を貰っている。


    文政8年(1825年)に亡くなったとき,郷の人々はその徳を慕って,黄幡宮(おうばぐう,現在の太田神社)境内に「之保社(しほしゃ)」という社を建ててお祀りするようになった。訪れる人は社殿に至る参道の入り口に二つの鳥居が横に並んで建てられている珍しい姿を目にすることができる。


f:id:historyninjin:20210523212229j:image之保社と太田神社へ向かう二連の鳥居

    山路機谷の名は重済(しげなり),通称を熊太郎といい,号を機谷(きこく)と称した。なぜ機谷という号を名のったのか,その由来を自由に考えてみた・・・。


    かつて藤江の山では山繭(やままゆ)が多く採れたという。その清楚で鮮やかな薄緑色の山繭を使って,藤江織りという絹織物に似た織物が作られていたという記録がある。機谷の機を,はた織りの機(はた)と解するなら,はた織りのトントンという心地よい音が響く谷あいの村というほどの意味ではないかと思いつく。そのように捉えるならば「機谷」という名はそのまま藤江の里を示す言葉であって,それほど機谷は藤江の里を愛したのだろうと捉えることができる。


    また一方,機谷の機は,切りたった峻険な様をあらわす言葉である。藤江の里には,切りたった峻険な谷は見られないことから考えると,機谷は,自らを切りたった峻険な谷と称し,そのように見なすことを通して,現状のままでは満足しない,もっと幸福な世の中を見たいと思いつつ,自らを律し,そのためにこそ自分の権限で動かせる資産を,ある意味惜しげもなく投資しようという気概を持った,社会全般を視野にもった思想家・経済人・企画家(ドリームメーカー)として生きようとしたのではないかと捉えることもできる。(以上はどこまでも想像であるのでくれぐれも誤解無きよう。)


    備後に漢詩や教育の風土を築いた人物は何と言っても菅茶山を置いて他にいない。機谷が菅茶山に直接会った可能性は十分に考えられるが,機谷の生年が1817年であるのに対し,神辺の菅茶山が80才で没したのが1827年であることから考え,先に述べたが,廉塾の都講の藤井暮庵を介して,菅茶山の人格や学風に触れた世界が大きかったのではなかろうかと思われる。


    また,幕末の改革思想に多大な影響力をもった人物として,広島の思想家,頼山陽(らいさんよう,1780~1832)を挙げることができる。菅茶山は頼山陽の文学的,思想的天稟(てんぴん)を見抜いて,自らの養子にし,後継者となることを願ったようだが,当の頼山陽は備後の田舎に留まることをこばみ,京都へと旅立ってゆく。頼山陽の息子(三男)で,勤王思想家の頼三樹三郎(らいみきさぶろう)と山路機谷が,深い交友関係にあったことを考えると,天の経綸(けいりん)ともいうべき,不思議な人と人のめぐり会わせを感じる。


    また,頼家と山路家の関係はそれだけにとどまらない。山路家,とくに岡本山路家は,明治を迎え漁業権を失い,巾広く展開していた社会福祉事業が時代の波に翻弄され,次々に暗礁に乗り上げてしまう。多大な負債の責任を取って,藤江にあった11軒の山路家のすべてが離散し,藤江を離れるようになったとき,例の「白雪楼(奇好亭)」を,竹原の頼家(9代の俊直)が買い取り,竹原に移築したのである。貴重な歴史的文化財を頼家が救ってくれたのである。


    白雪楼は頼家に移されてから留春居(りゅうしゅんきょ)と呼ばれ,大切に保管されることになるが,さらに頼家から無償で安芸郡(現在呉市下蒲刈町に寄贈され,1993年から1995年にかけて移築再建されることとなる。白雪楼の数奇な運命をたどっても,幕末の動乱期を生きた人々の息吹を感ずることができるのではなかろうか。現在,白雪楼は下蒲刈町で,貴重な観光資源の一つとして大切に保存され,一般に公開されている。多くの学者,詩人,勤王の士等が訪れたであろうその建物が,当時の姿で現存するということは,藤江の歴史を考える上で明るい光を与えてくれる。


    機谷の生きた時代は幕末であり,国の行方の見えにくい,非常に難しい時期であったと言える。機谷23才,1840年に中国で起こったアヘン戦争の報は,日本全土に激震ともいうべき衝撃を与えたと思われる。このまま行けば,アジア・日本は悉(ことごと)く欧米列強の植民地と化し,経済的,軍事的,文化的に完全に支配搾取され,ねじ伏せられてしまうという,現在を生きる私たちには想像することも困難なほどの国家的危機意識が列島を走ったのである。そのような危急の情勢にあって,何を見つめ,どのように生きていくか,民族全体がその存亡をかけて問われた時代であったと分析することができる。多くの日本人が,国家を意識してそれぞれに様々な分野で立ち上がるのだが,山路機谷もその課題を正面から背負って生きた一人であった。


    そのような時代を背景として,嘉永6年(1853年),山路機谷36才の春三月,機谷は鞆の浦,対潮楼(鞆,福善寺境内の堂宇)にて「未開牡丹」を詩題とし,全国に参加者を募り,漢詩の宴を主催したのである。参集した漢詩人,思想家,勤王の士による詩は,3年後(安政3年,1856年)に白雪楼蔵版として上梓(じょうし,書物として出版)された詩集に,2日間で189首,補遺として22首が加えられ,全部で211人の詩人による211首にのぼっており,対潮楼に直接足を向けた詩人は「相會者一百餘人」(江木鰐水の未開牡丹詩序より)とあり,100人を優に超える。


    2日間にわたって,それぞれの志(こころざし)を持った人を全国から集めて行われた,これほどの規模の漢詩の会は,この時代,他に例を見ないのではないかと思われる。文学史的に見ても,近世日本における一つの金字塔として再評価されてもよいのではないか。しかも,ことは単に文学史的出来事としてだけで捉えることはできない。日本を取り巻く国際情勢が予断を許さない緊迫した状況の中で,この漢詩の会が開催されたことの意味を考えなければならないからである。


    その年(1853年)7月に浦賀に黒船が来航し,福山藩主であり,江戸幕府の老中首座であった阿部正弘がそれに対処し,翌年アメリカとの間に日米和親条約が調印される。未開牡丹の詩集に序文を書いた江木鰐水(えぎがくすい)は,黒船来航のとき,阿部正弘から江戸出府を命ぜられ,ペリーとの対応その他にあたっているが,その序文からは,当時の国防問題(海防)等における緊迫した状況が伝わってくる。

 

江木鰐水の未開牡丹詩会の詩集への序文

未開牡丹詩会の詩集への序文

[http://:title]



    機谷はなぜ詩題を「未開牡丹」に設定し,それを当時の国を思う錚々(そうそう)たる漢詩人に対して問いかけたのだろうか。未開牡丹とは,まだ咲く前の蕾(つぼみ)の状態を指している。花はまだ見ることはできないが,天与の牡丹としての生命はその中に胚胎(はいたい,原因をその内に含み持っていること)されていて,歴然として将来に向かって伸びようとしている。その様(さま)に,機谷は祖国日本の姿を重ね合わせたのではなかろうか。


    現在の視点から表現すれば,「未開牡丹」とは開国近代化前の近世江戸末期の日本を指したものであって,今後,いかなる方向に向かい,如何に咲くべきかということを問いかける根源的な言葉だったのではなかろうか。


    開国という国の方向を決定した阿部正弘の決断は大局的に正しかったと思われる。混迷する情勢の中,バランスをとり,新しい意見や人材をも積極的に取り入れ,斬新(ざんしん)な幕政改革を進めながら,日本近代化の一歩を踏み出したと言える。


    歴史に「if(イフ,もし)」はないという言葉があるが,もし,阿部正弘が早逝(そうせい,早く亡くなること)せずにさらに一定期間江戸幕府のかじ取りをしていたとするなら,日本の近代化はもっと別の,穏当な展開を見せただろうと想像される。しかし,安政4年(1857年)阿部正弘が弱冠39才で亡くなり,井伊直弼(いいなおすけ)が翌安政5年,大老に就任すると,諸外国の圧力に屈する形で,きわめて日本に不利な形での修好通商条約等を結んだりするが,その政策や国としてのあり方に反発して,様々な曲折を経て,過激な討幕運動が起こるようになり,内戦のような激動の時代へと突入してゆくようになるのである。未開牡丹の詩会に参加した頼三樹三郎(らいみきさぶろう)が安政の大獄(たいごく)で斬首(ざんしゅ)されたのは,この時である。


    さて,鞆で未開牡丹の詩会を主催した山路機谷は,その16年後,明治2年(1869年),52才でその生涯を閉じている。沼隈の山南(さんな)にある,浄土宗悟真寺(ごしんじ)の末庵(まつあん)とされる藤江町の念仏院に山路家累代の墓碑(150基ほどの墓碑群)がある。


    そのなかでも,機谷の碑が大きな自然石に「機谷處士夫婦碑」と刻まれて正面に位置して置かれている。「處士」とは,在野にて国を想いつつ歩んだ者というほどの意味であり,死ぬ前に自ら建てた生前碑であると聞く。大きな時代の変化の中で,山路家の終焉を予感していたかのようなたたずまいである。


f:id:historyninjin:20210523212445j:image山路機谷夫婦の墓碑


f:id:historyninjin:20210523212835j:image周囲150基ほどの墓碑群


    また,同時にその大きな碑に相対(あいたい)した時,碑に刻まれた「夫婦」の文字が目を引く。機谷とその妻が二人で,訪れる人を迎えてくれているかのような印象を受ける。機谷の妻は悟真寺のある山南村の何鹿(いかづか,「何鹿」は屋号)桑田家より山路家に嫁がれた方であるという。


    ようやく紅梅のつぼみがふくらみかけたある日,悟真寺を訪ね,ざっと境内を一巡したが,凛としたたたずまいになにか機谷夫妻の心の姿を垣間見たような感覚をおぼえた。人は生まれ,出会い,夫婦となり,夫婦(父母)としての愛の形を整えてこそ,人生をひとつ完結させたと言い得るのではなかろうか。そうしてそれをまた,後の人に残していくのが人としての務めなのかも知れない。私たちは,そのようにして先人から受け継いだ愛の形を,あたかも虹のバトンのように受け取り,手渡しながら生きてこそ,そこに生きがいや生まれてきた意味を見出すことができるのではなかろうか。そのように考えてみると,「機谷處士夫婦」の銘は意味が深いものとなる。


f:id:historyninjin:20210523213104j:image悟真寺本堂前に咲く紅梅

    山路家の没落については,詳細な記録が残っていないため推測の域をでないが簡単に記しておく。機谷の時に1000人ほどの人夫を雇って山南(さんな)と本郷(ほんごう,三原本郷)の二か所で行われていた銅山の開発が,銅の含有量が低く採算がとれず不調であったことにより多額の経済的負債が生じた。庄内藩がかつて蝋燭の原料の櫨(はぜ)の植樹を行って成功した例を参考に,藤江・浦崎・常石つねいし方面に計30町歩ほど櫨を植樹し,蝋燭(和蝋燭)を生産する計画を立て実行したが,時代はガス灯の時代に移行しつつあり,全く振るわなかったという。さらに,機谷の死後,体制の変革により山路家は漁業権を失うことになる。おそらくこれが致命的な要因となり,明治なかごろ一気に没落し,藤江にあった11軒の山路家はその責任を負い,四散することとなる。


    山路機谷について聞いたり調べたりしたことについて筆を進めてきたが,まだ書き残しておかなければならないこと,考察し確認しなければならないことがいくつかある。思いつくだけでも,金江(かなえ)町の農免(のうめん)道路のほとりにある岡本池を作った岡本山路家六代当主,山路重敏に関すること,岡本山路家の事業を支えた名番頭ともいうべき松兵衛という人物について,当時起こった百姓一揆に関すること,加茂に生まれ11才の時に親戚の機谷に引き取られ,英才教育を受けた平川鴨里(ひらかわおうり,通称平川良坪ひらかわりょうへい)に関すること,佐賀藩士であり明治時代,日本の法典編纂に携わった鶴田皓(つるたあきら)と機谷との出会いについて,勤王の士で豪放磊落(ごうほうらいらく)で有名だった森田節齋(もりたせっさい)が6年間もの間,藤江に身を寄せたこと,港湾の整備と航海の安全のための標式の設置や山路家が福山藩に対してなした貢献等についてであるが,それらは後日,自らに課する宿題として,一旦ここで筆を置くこととする。


    このように,私たちの背後には,偉大とも言うべき先人の営みがあったということを深く思い,感謝の念を強く持つものである。また,温故知新(おんこちしん,昔のことをよく研究して,それを参考に今つきあたっている問題や新しいことがらについて考えること)という言葉を噛みしめるならば,特に日本の近世から近代以降の歴史を見つめ直し考察するとき,幕末の動乱期にも似た,変化の多い「現代」を生きる視座を,ある意味見出すことができるのではないかと思われるのである。


    さて,私たちはこれから,山路機谷という先人が私たちに手渡してくれた「虹のバトン」を,誰に伝えて行ったらよいのだろうか?

 

2014年3月6日(2014/10/16一部修正) historyninjin記                              

※参考文献・資料等
藤江と山路機谷 記念誌」 松永地区歴史・文化再発見の会 2008年3月発行
「未開牡丹の詩莚—山路機谷と未開牡丹詩—」 園尾裕著 2011年 鞆の浦歴史民俗資料館発行
「山路機谷先生伝 附森田節齋と平川鴨里」 池田春美編著 1933年
「茶山詩話」 茶山詩話編集委員会編(北川勇講演) 1996年
藤江郷土史を研究してこられた,M氏との対話・聞き取り 録音資料他
インターネット上の検索資料 誠之館人物誌のデータベースその他

 

    ♪「その咲くままにまかせよ」

vimeo.com

 

    📄楽譜と写真資料

楽譜と写真資料リンク

[http://:title]