Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

藤江の里物語⑤ 歌で綴る藤江の里

    白雪楼の歌が忽然と生まれてきたことについては前回書いた。

https://historyninjin.hatenablog.com/entry/2021/05/27/060815

    「藤江の里の歴史的背景を見つめて」の小論を書き上げるまでの間を前後して、藤江の里を眺めながらいろんな歌が生まれてきた。

 

    通勤しながら、車を運転する中で藤江のことを思っているうちにメロディーが閃き、そのイメージの中に子どもたちの元気な声が聞こえだし、作詞して歌にしたのが「みんなにありがとう」である。

 


みんなにありがとう on Vimeo

 

    未来の藤江の里や国や世界の担い手になってほしいという願いや、ふるさとへの感謝の思いをさらりと織り込んだ歌である。

 

    私は小論「藤江の里の歴史的背景を見つめて」を次のような言葉で結んだ。

    【さて,私たちはこれから,山路機谷という先人が私たちに手渡してくれた「虹のバトン」を,誰に伝えて行ったらよいのだろうか?】と。

    そこに出てきた「虹のバトン」というキーワードを受けて作曲したのが次の「虹のバトン」という同じタイトルの歌である。

 


虹のバトン on Vimeo

 

    ある時、藤江小学校の先生方の特別支援教育の研修のために教育委員会から招いた講師のM先生に小論をコピーしたものと、私が作曲した歌を何曲かCDにしたのを差し上げた。

    しばらくして、丁寧なお便りをいただいた。CDの中の「虹のバトン」を他の小学校などに行った時、講話や研修をする場で、そこの先生たちに聞いてもらってもいいですか、とのことだった。どうぞご自由に使ってくださいと返事をした。M先生は教育の現場を引退した後、後に続く教師たちに、特別支援を担当する者の姿勢や価値観をどこに置いたらいいのかなどについて、ご自分の経験などを織り混ぜて、分かりやすく話してくださった。

    初老の女の先生だが、なんだか先生という感じがしなくて、どこか遠い世界をじっと見つめてコツコツと生きてこられた人のような感覚を私は受けた。

    何度か年賀状をやり取りさせていただき、ある時、聞きたいことがあって電話を差し上げた。落ち着いた声の男性が電話に出られた。しばらくお待ちくださいと言って、待っているとM先生が電話口に出てこられた。何となくどこかの事務所のような感じがしたのを覚えている。

    私は「おや、どこかの会社なのかな?」とふと思ったが用件を話して電話を切った。

    ある日、新しい歌が沢山出来たのでそれをCDに焼いた。何人かの人に上げて、ふとM先生を思い出し、住所を辿ってCDを届けに伺った。玄関は閉まっていて留守だったので、玄関先にCDとメモを置いて帰ってきたが、行ってみて驚いた。

   駅家町の蛇円山が遠くに見える立派な由緒ある神社だったのだ。古いこじんまりした鳥居、階段を上るとその上の方には幾つか建物があり、さらに行くと社殿があるらしかった。

   ほどなく先生からお礼の電話があった。あの「虹のバトン」使わせてもらってますよとにこやかに話して「頑張ってくださいね」と励ましてくださった。


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駅家町にある神社

 

    私のニックネームは初任で勤めた竹尋(たけひろ)小学校でついた。「にんじん先生」である。

    その「にんじん先生」に被せて私が編み出した教え子と私の課外授業の時間を「にんじん学校」と呼んでいる。地域の神社を巡ったり、古墳を見学したり、自然を眺めたりする。

    駄洒落を言って笑ったり、その子の話をとことん聞いたり、車で動きながら私の言いたいことをばんばんその子に聞いてもらったり(というか、聞かせたり)、子どもたちと歌ったオリジナルソングのCDをかけながら、ああ、あの時こんな楽しいことがあったなとか、あの友だちどうしてるかな?などわいわい話したりもする。

    移動図書館ならぬ、移動簡易学校みたいなものだ。


f:id:historyninjin:20210528060833j:imageにんじんファミリーのキャラたち


f:id:historyninjin:20210528060928j:imageこのキャラは連絡帳などで子どもたちとのコミュニケーションツールにもなっている

こちらは子どもたちと歌ったにんじんファミリーの歌


にんじんファミリーの歌.mp4 on Vimeo

 

    わいわい話しながら、私はその子の言葉を注意深く聞くようにしている。難しいことばを簡単な言葉で言い換えるとどうなるかとか、その反対に優しい言い方をまとめて概念化して漢字語で表現するとどうなるかとか、その気持ちを言葉で表現するとどうなるか、などなど。だんだんペラペラしゃべり出すようになってくると、その子の内面の可能性や、弱点や、対人関係で抱えているとストレスや、お父さんお母さんに感じている感謝の思いとか、そんなこんなが見えてくるようになる。

    担任が終わったから、はいさようならが先生ではないと私は思っている。私が3年生になる時、父の仕事の関係で、それまで住んでいた福島を離れ、青森県八戸市に転校した。八戸には10年間住んだ。その後父は、埼玉県の仕事を担当し、晩年は母の実家に近い福島県石川町に居を構え、都市計画の事や、地元の商工会議所などから町起こしの相談を受けたりしていた。

 

    そんなことから、私の方から福島の幼稚園や小学校の先生に手紙を書いて、ずっと文通をしてきた。

    大学1年生の夏休みに連絡を入れて、その先生たちのお宅を伺ったことがある。

    2年生の時のK先生は大変喜ばれ「何十年も先生をしてきたけど、あんたみたいに手紙をくれて、訪ねてきてくれた子はいないよ。ありがとう。」とお礼を言ってくれた。

    庭に咲いている濃いピンクの花をさして「あの花何て言うか知ってる?」と聞くので知らないと答えると先生は、「この花ね、夾竹桃(きょうちくとう)と言うのよ」と教えてくださった。夾竹桃とはその後30年ほどして、ある劇的な出会い?をするのだが、その話は後日・・・。

https://historyninjin.hatenablog.com/entry/2022/08/05/093655

    幼稚園の時の先生は私を泊めてくれて、次の日にはお子さん二人と私を連れて日帰り温泉旅行に連れて行ってくれた。そのことを先生のお宅から母に電話すると母は恐縮してしまい、母のほうからその先生に長距離電話をかけて、ずいぶん長いこと話をしていた。

 

    そんなこんなで、教育は百年の計とよく父が言っていたが、私もそんな感覚を自然に身につけたようである。

「にんじん学校」はそんなコンセプトによって成り立っていると言える。入学生は極めて少ないのも特徴、というか許容量がないので現在3人ほど。(^_^)

 

    あることがきっかけで、中学校から高校を卒業するまで、時々会って励ましてあげたりした子がいる。彼にはお父さんがいなかった。でもその子の中に光るものを感じた私は、その子と会うのが楽しかった。やがて彼は大学(医学部)に進学し、現在は医者のたまごとして頑張っている。なんと奥さんはロシア人。かわいい男の子と女の子もいる。

    もうその子はにんじん学校の生徒ではない。卒業生と呼んでいいだろう。メールで近況を伝え合う程度だが、彼は私のことを「おやじ」と親しみを込めて呼んでくれ、かえって私のほうが励まされている。

 

    服部小学校に正式に赴任する2年ほど前、ご自分の母親の介護をしなければならない先生のピンチヒッターとして6月から8月までの3カ月の間、服部小学校で特別支援学級の担任をしたことがある。

    その時に受け持ったT君とは一緒に地元の童謡を歌おう会で歌ったり、小学校で開かれた地域のお祭りで歌ったりして、その後長い付き合いになる。

    服部小学校から別の小学校の担当となり、通常学級1年生15人の担任をしていたが、1年ちょっとしてある日の夕方、T君が妹と一緒にお母さんと私のいる小学校にやって来た。

    なぜやって来たのかわからなかった私は黒板にニンジンの絵を描いたり、どうした今元気かと聞いたりわいわい話して笑ったりしていた。やがてお母さんがT君に言った。「今日先生に言いたいことあってきたんでしょ。ちゃんと自分から言いなさい」と。

    それまでいつもと変わらないように見えたT君が急に神妙な顔になりおどおどした様子で口ごもった。何度かお母さんに急かされて重い口を開いた。そして言った。

    「先生、ぼくの担任になってください」と。

    私は一瞬目が点になった。そんなこと言われてもそんなことあり得ないじゃんと、答える言葉がなかった。しかし、彼は真剣な様子。どうしてですか?とお母さんに聞いて、いろいろわけを教えていただいた。

 

    詳細は省くが、その翌年、お母さんと電話で話した。私は言った。「ダメもとで結構です。校長先生にT君のことを相談して、頼んでみてください。私は、服部小学校に行くようにという人事があったら、喜んで受けますから」と。

    どこでどう話がついたのか、私は知らない。臨時採用なので異動は早い。3学期が終わって普通の先生たちの人事が発表されて数日経ったある日、教育委員会の学事課から電話が入った。「次の任地は服部小学校でお願いできますか?」と。服部小学校が111年の歴史に幕を下ろし閉校になる最後の年、わたしはT君の担任になることができた。

    T君もお母さんも踊り上がらんばかりに喜んだそうだ。

 

    ある日、ご両親に許可をもらってT君の家に車で行き、最長2時間で帰ってきますと言って「にんじん学校」に出かけた。その日の目的地はあのM先生のおられる神社。訪ねるとにこにこしながら迎えてくださり、神社の由来などを教えてくださった。

 

    宮司の娘として生まれたので後を継がなければならないのだけれど、祭っている神様が女の神様だったのでそれが問題だったのだというのだ。

    もともとは吉備の国(岡山県)にあったのだそうだが、7世紀後半こちらに移転するようになったとのこと。福山初代藩主水野勝成もこの神社を篤く信奉し、鎧などの武具を納めたという。

    女の神様を祭る神社に女の宮司では相性が悪いので、宮司にはならなかったこと、確かお婿さんを迎えてその方が宮司をされ、現在は息子さんが宮司をしておられるとのこと。

    電話に出られたのは息子さんだったのだ。神社にかかってきた電話だったので、私がなんだかどこかの事務所のような感じがしたことも、それで合点がいった。

 

    T君を交えてしばらく学校のこと、今どうしてるかということ、「この子息子さん?」と聞かれて、そうじゃないんです、でも半分息子のようなものですとか話をして、帰ろうとすると、M先生は「ちょっと待ってね」と言われ、目の前の畑にある野菜を新聞紙に包んで「これ食べてね」と渡してくださった。T君にもだいだい色の鮮やかなみかんを手渡してくれた。

    その鮮やかなみかんの色を見て、私はふと「虹のバトン」みたいだなと思った。

 


虹のバトン on Vimeo

 

    ある日の未明、飼い犬を連れて散歩に出た。月が中天にあって森羅万象を見つめるかのような世界だった。ふと藤江の里を思い、作曲した。

その曲が「月明かりのふるさと」。


月あかりのふるさと on Vimeo

 

 

    藤江には海のほうに出る小高い山がある。

    山というより岡と言うべきか・・・。かつておそらく平安時代ごろ、その岡の頂きに山城があったのだとか。今は小さな神社が建っているが、城があったと思われる周囲に壕の跡が辛うじて確認できる。M氏と話していて、城とは言うけど、藤江に入ってくる舟などを見張る見張りを兼ねた櫓みたいな造りだったのではないかなとのこと。何度か攻防があったらしく、その山城を守る一族が入れ替わったりしているようだ。見張りと同時に、狼煙(のろし)をあげて連絡したりする情報伝達の中継点でもあったようである。

 

    その山(岡)の斜面には沢山の山藤が咲く。それで藤の花の咲く海沿いの江ということで「藤江」になったのではないかと考えられるが、定かではない。

    万葉集藤江という場所が出てくるらしいが、その藤江はどうもここではなく、尾道のほうだとか、兵庫県の明石のあたりだなどという見解があるようだ。

 

    私の郷土史の先生にあたるM氏は笑いながら「ここが、万葉集にでてくる藤江です」っていう記念碑を建てて宣伝すれば、早い者勝ちで、みんなああそうだったのかと思うようになるんだがね、と冗談めかして話したことがある。

    なかなか面白いなと思って笑いながら聞いたが、子どもたちがふるさとに愛着を持ち、誇りを持てたらそれが一番だろうなと思う。

 

 

    そんなこんな考えて藤江小学校に咲いた藤の花を見て、浮かんできた歌が「藤江の里の藤の花」だ。木はかなり老木らしく、倒れかかった支柱を補修して支えにしている。


藤江の里の藤の花 on Vimeo

 

 

 

    藤江小学校を離れ次の小学校に赴任するようになる少し前に作曲して生まれてきたのが「思い出の町明かり」という歌。


思い出の町あかり on Vimeo

 

    藤江の里の地理的特徴と、かつての産業であった塩田の風景、山繭で紡がれた薄緑色の清楚な藤江織りと呼ばれた絹織物(一般の絹よりも繊維が太く味わいのある織物だったようである。現物は残念ながら見たことがない。広島の可部のほうで山繭保存会のようなものがあり、山繭で織物を再現しているとのこと。いつか足を運びたいと思っている。)のような織物があったとのことなどを歌詞に含めた。

    かつては畳表の生産地であったが、そのこともさらりと歌詞の中に織り込んだ。歌詞にはしなかったが、藤江の里では現在4箇所の地域で(かつてはもっと多かったようだが)その地域にある神社で、毎年神楽が舞われている。

    若者が積極的に後を継いでおり、小学生も神楽を舞っているのだ。このような地域は福山でも藤江とその隣の浦崎地区ぐらいのもので、非常に貴重なものだと思っている。 

 

    ある秋の日、深夜までかかってその4箇所の神社を回り、写真を撮って記録したことがある。ある神社では神楽が終わったのは真夜中の2時ごろだったよと、ずっとその行事に付き合った校長先生が苦笑しながら神楽の祭りの翌日話してくれたことを思い出す。

    郷土史の先生であるM氏曰く、藤江の神楽はなかなかのものとのこと。神楽の流れには、古典的で静的な「出雲神楽」とドラマチックで動的な「備中神楽」の二つの流れがあるのだが、藤江の神楽は誰がどのようにアレンジしたのかは定かではないが、その両者の長所をうまく取り込んで調和させ、見ていて飽きさせない素晴らしいものだとのこと。


f:id:historyninjin:20210528054129j:image藤江の神楽(これは備中神楽的)


f:id:historyninjin:20210528054212j:image藤江の神楽(こちらは出雲神楽的)

 

 

 

    随分前、M氏と一緒に広島県の三次(みよし)にある風土記の丘に行った時、ドライブの道すがら私が神楽について質問したことに対してM氏がにこにこしながら、ご自分が調べたり研究したりしたことを聞かせてくれた。

 

    この歌の歌詞の最後を「いにしえそこには歌が紡がれて」とした。「歌」という言葉は暗に漢詩のことをイメージして選んだ。山路機谷が鞆の浦、対潮楼で催した「未開牡丹の詩会」で錚々たる漢詩人たちによって詠まれた漢詩のことを指した言葉である。

    藤江は日本の文学史において、画期的な一地点を画した文化的遺産を残した地であると私は思う。いつの日か、再評価されることを祈念している。

 

    ・・・そんなことなど様々な思いを藤の花に込め、歌詞の中に折り込み、構成した歌が「思い出の町明かり」である。

 

    長年地元でお餅やおかきなどの米菓子を製造してこられた方がおられる。M氏と親戚筋にあたるDさんだ。

    老人会の会長をされたこともあり、活動が認められて市や県から表彰されたこともあるという。

 

    老人会の集まりにM氏を招いて、地元の歴史を語ってもらったところ、話が面白くてアンコールがかかったよ、などと教えてくれた。

 

    私もM氏と一緒にお菓子の工場に伺い、これからの藤江の里の町起こしのことや、山路家の事や、今の老人会の問題や、職業体験で中学生を招いていろいろやってるけどそれってどうよてなこと、会社を立てて経営したり、その会社を潰して処理するときのことなど今までの体験談には、私の頭では捉えられないような色んな実務経験を語ってくれたりなどいろいろ、何度も伺って話をしたが、話題が尽きることはなかった。

     その工場の二階がDさんの住居になっているのだが、ある日そのお宅に伺い、「思い出の町明かり」やDさんに頼まれて作った老人会の歌などを吹き込んだCDをお渡しした。すると「ちょっと待ってーな、今近所の仲間呼んで聞かせるから」と言われ、何人かに電話しておられた。

    すると、ほどなく3人ほど、近所の老人会(Dさんは老人会の将来を考えて、こんな組織じゃもうダメだ、老人会という名前も変えて、サロンみたいな交流の場にしないと未来はないよ、と考えておられ、さまざまな努力をしておられる、いわば先端を行く人である・・・)の仲間が集まってこられた。そして「思い出の町明かり」を聞いてもらった。

 

    ある男性の方曰く、聞きながら「ああ、昔まだ塩田があったときの藤江の風景が浮かんできたよ」とぽつりと言われた。私はほっとした。そして嬉しかった。

 

    かつて、Dさんのお菓子工場兼住居の前の通りは、いわば藤江の里のメインストリートだったとのこと。

    そこには銀行(中国銀行の支店)もあり、映画館兼劇場もあり、お店も立ち並んでいたのだとのこと。今行くと、車がすれ違えない狭い道なのだが、そこが藤江の里のメインストリートであり、都会のような場所だったというのだ。いまから数十年前のことだ。

 

    Dさんのお宅のすぐ脇に海に流れていく川(河口)があり、海から入ってくるならば、その昔、舟(木造の和船)が方向転換することができるようにするために人工的に作った「舟回し」の痕跡を何とか確認することができる。

    かつて平安時代藤江の里は京都の石清水八幡宮のいわば荘園であり(「藤江の荘」と呼ばれていたようだ)、こちらから京都に塩、絹織物、それと畳表などの産物を送り出していたらしい。

    M氏と出会って、郷土史を見つめる見つめ方を随分手ほどきしていただいたが、藤江の里の物語は山路家だけでは終わらないのである。

 

    山路家が藤江の里に拠点を置くようになったのは、おそらく江戸時代の始まる前後ではないかなと私は見ている。その前あるいは同時に、鞆の浦に拠点を置いていたという記録がある。

    祇園祭りの発祥の地と言われる福山市鞆の浦の沼名前(ぬなくま)神社の参道に山路機谷(山路熊太郎)の銘の彫られた大きな石造りの鳥居がある。近くのお寺に弔う人のいなくなった山路家の古いお墓があるという情報をネットで見たので、行ってみた。

 


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沼名前(ぬなくま)神社に向かう参道にある機谷とその父が建立した鳥居

 

    境内を回って探したが見当たらないので、お寺の人に聞いてみたところ、どういう経緯かわからないが、もうその墓は移転したらしく、ここにはないよとのこと。今どこにあるかもわからないようなことを言われた。なんとなく素っ気ない感じがしてそれ以上話ができないなと感じ、私はその寺を後にした。

    かつて山路家は鞆の浦で金融業を営んでいたようなのだが、そちらの方面の確認はまだ手をつけていない。鞆の浦の歴史に詳しい方がおられたら、何か分かればいいなと思っている。

 

    「思い出の町明かり」は山路家にとってみれば鞆の浦であるのかも知れない。また、人それぞれに「思い出の町明かり」のような世界があるのではないだろうか。ノスタルジアと呼んでいいのかも知れない。

 

    そのような心象風景を心に持っていることの意味を考えてみると、それって自分を見つめる縁(よすが)があるということであり、それを基点に未来に向かって建設的に進んで行くと考えるならば、とても素晴らしいことではないだろうか。幼い日にふるさとを離れて流浪するような経験をした私にはとても羨ましいことでもあるのだ。

 

    今日の午後、なだらかな山に雲が所々かかっていて、まるで一服の水墨画のような風景を目にした。降っていた雨がお昼前には止み、すこーし日の温かさが感じられるようなうっすらした日差しの中に現れた風景だ。そんな「明るさ」がもしかしたら「思い出の町明かり」の明るさかなのかも知れない。

 

    ♪「思い出の町明かり」


思い出の町あかり on Vimeo


f:id:historyninjin:20210528064532j:image藤江の里から見た松永湾(白雪楼から松永湾を眺め、菅茶山は「遺芳湾」と詠んだという。中央に見えるのは山路家の150基ほどの墓碑群)