まだ画像が未編集(後半)のところもありますが、文章だけでもアップしておきます。(^_^) 2022/10/16
内海の島の岸辺(浜辺)で考えた覚え書きをここに置いておこうと思います。タイトルは『ふるさとについて考える』です。(^_^)
【ふるさとについて考える】
◆「しやごし」の意味,由来について調べるようになった経緯などの覚え書きです。(^_^) 今までこのブログに書いた内容が一部重複していますが、ご了承ください。(^。^;)
内海小学校に赴任して1カ月ほどした4月末,小学校から歩いて5分ほどの海岸で行われた地域活動(清掃活動)で児童たちと汗を流した。その海岸(浜)の名前を学校行事の連絡でなんとなく耳にしていたが,その時はふーん変わった名前だなと思っただけでそのまま聞き過ごしていた。浜の名前は「しやごしの浜」である。
ところが,児童の家庭に配布する学級通信を作っていてその地域活動のことを記事に載せようとして構成を考え,浜の名前を確認して文章にしようとした段階で,私の頭の中に「しやごし」って一体何なのだろうという疑問が湧きあがって消えなくなってしまったのである。
ちょうど目の前におられた内海小学校に長く勤務する2年生の担任の先生に質問した。「先生,しやごしの浜ってどういう意味ですか?」と。するとその先生は「意味はわからないけど漢字があるよ。」と言われ,ご自分のパソコンの中から「しやごしの浜」での活動について作られたファイルを探し出し,見せてくれた。漢字で「志垣の浜」と書いて「しやごしのはま」と読むということがわかった。
その瞬間,私の頭の中にさらに強い疑問が湧き上がった。「志垣」をどうして「しやごし」と読むのか,その関連性がさっぱり掴めなかったからである。「しがき」ならば分かる。それでも次に「しがき」とは何かという疑問が残るが,どこをどう考えても「志垣」が「しやごし」になる理由が思いつかなかった。いてもたってもいられなくなり,私はこのようなおそらく郷土史に関する地名の問題は,地域の人に直接会って聞いてみることから始めるのが一番だと,今までの経験から思って動き出した。
私はパソコンで内海町横島の地名をざっと調べてみた。すると地域の地名の字(あざ)が目に飛び込んできた。家廻(やまわり),入双(にゅうそう),防地(ぼうじ),石堂(せきどう)など。はじめ読み方がわからず自分勝手に「いえまわり」「いりそう」「ぼうじ」「いしどう」かなと思っているうちに,気が付いたら足が公民館に向かっていた。そこにおられた受付の方に読み方を教えていただいて,さらに目が点になってしまった。「ぼうじ」以外全滅だったのである。
尾道図書館の近くを昔から「防地口(ぼうじぐち)」ということを知っていたので辛うじて「ぼうじ」と読めたのだが,清十店(せいじゅうみせ)に伺って話している中で私は「ぼうじ」はお坊さんの坊と土地の地ですねと話をすると,教え子のお母さんに「防ぐという字ですよ」と言われてしまい,私の頭はよほど早とちりと思い込みでできているのだなと,思わず自分に対して苦笑してしまった。
公民館に行って私は「しやごしの浜」の意味について質問した。由来が分からなかったとしてもその言葉の意味だけでも分からないだろうかと思ったからだ。館長さんが親切に内海町史をめくりながら調べてくださったが,答えは見つからなかった。お礼を言い,外に出た。「そうだ,しやごしの浜に行って近くに住む人に聞こう」と思い歩き出した。
そして,庭に立派なヤシの木のある家の前に立ち,呼び鈴を鳴らした。玄関に出て来られ,にこやかに応対してくださった初老のご婦人に私は同じ話を切り出した。「しやごし」の意味は分からなかった。が,家廻(やまわり)からこちらに移って住むようになったのでこの辺り(しやごしの辺り)のことは詳しくないのよといいながら,家廻の辺りのこと・・・旧内海小学校(実際は横島小学校)のあった場所や,昔内海には二つの中学校があって,今の内海小学校のあるところは西中学校,今の内海中学校のあるところは東中学校であったこと,昔は1年ごとに交代で運動会を合同で行っていたこと,今の内海中学校のグランドまで砂浜であったこと,家廻にある旧内海小学校跡地への行き方など,いろいろ教えていただいた。
小学校のすぐ裏手のお宅の方にも声をかけて,家の中におられたお年寄りに聞いていただいた。「しやごしって昔からそう言われてきてるので意味なんてわからないよ」という返事だった。私は「まあ,そうだろうな,しかたないよなあ。」と思いながら,さてこれからどうしようかと考えた。
暗くなるまでにはまだ時間があったので,そうだ,昔小学校があった跡地を見に行こうと思い,車で向かった。入双(にゅうそう)の所から山側に行けばよいのかなと思い,ハンドルを切った。庭先にその家のおばあさんがおられたのですぐ車を停めて声をかけた。すると,小学校の跡地は,ここから戻ってガソリンスタンドの所から山側に登るのが一番わかりやすいよと教えていただいた。「しやごし」の意味について聞いてみたが,意味はわからないと言われた。一旦戻ってハンドルをきった。ハンドルをきったちょうどその角の家の生け垣の周りに別名「インカのユリ」と呼ばれる「アストロメリア」の花がたくさん咲いているのが目にはいり,ほっと心が和んだ。地味な色の素朴な花だがこんなに沢山咲いているのを見るのは,初めてだった。
ガソリンスタンドまで戻ってハンドルを切り山に向かって進みはじめた。途中,おとなしくて優しそうな大きな犬を散歩させている男性が歩いておられたので,車の窓を開けて「昔の小学校の跡へはこの道でいいですか?」と話しかけた。すると,「行っても何にもないよ。」と言いながら,行き方を丁寧に教えてくださった。2年前まで草茫々だったのを地域の人で協力して草刈りをしたのでやっときれいになったのだとのこと。同じく「しやごし」の意味を尋ねたが,「さあ,わからないな。」とのこと。別れ際に,3年間ほど小学校の役員をしていたんだよと言っておられた。
横島八幡神社が右手に見えるところまで山道を上りつめ,小学校の跡地まであと少しの所まできた時,山道をトレッキングするような服装をして歩いて来られる男性が目に入ったので,車を停めて声をかけた。するとその方はなんと,旧小学校跡地の草刈りをするボランティアメンバーの一人とのこと,「是非見て行ってください」と笑顔で言われた。しやごしの意味は分からないけれど,そこに見える横島八幡神社は歴史的にすばらしいものだよということや,ここからさらに鳶が巣山(とびがすやま)の方に行ったところに,その昔横島城という小さなお城があり,その城跡が見つかったんだよということなどを話してくれた。
後日小学校の校門のところで子どもたちを見送って学校にもどろうとすると,後ろから声をかけられた。振り返るとなんとその方だった。人権委員の仕事をされていて,ちょうど「これ学校に届ける書類なんですが届けてくれますか」と,茶封筒を手渡された。不思議な出会いだなと思った。
(後日、にんじん学校で、3年生の時私が担任をした3人の教え子と、あと一人・・・教え子の中の一人の子の妹・・・で、内海の観光スポットになっている王城・切石山に登ったとき、山頂付近で偶然出会い、たまたま持っていた内海のしやごしに関するプリントを手渡しすることができました。またまた不思議なご縁を感じました。) (^_^)
まもなく旧内海小学校(実際は内海小学校ではなく,その前身である横島小学校)の跡地についた。車を降りて今は公園(家廻「やまわり」運動公園)になっているその跡地を,段差のある上から下までぐるりと歩き回り,いろんな角度で写真を撮って車に戻り山道を降りてきた。そのまま帰ろうとバス通りに出て少し行った。すると,間もなく左手に,横島で唯一のお店「清十店(せいじゅうみせ)」が目に入ってきた。教え子のおばあちゃんたちが家族で経営している食料品を中心とするとても便利な雑貨屋さんだ。できてからずいぶん長く,もう120年ほどの歴史があり,横島において,お店らしいお店はここ一軒だけ。私はふと思いついてこのお店に「横島の真珠」というニックネームをつけた。教え子からおばあちゃんの誕生日カードに一言書いてと頼まれた時だ。島の経済というか文化というか,地域のコミュニティーの一翼を担っているお店のように私の目には映ったから,それで「真珠」のように光って見えるという意味を込めたのだ。
後日「わがふるさと内海」という歌を作曲したが,その歌詞の中に私はすっと「瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる緑深き内海の島わがふるさとよ」と真珠という言葉を織り込んだ。我ながらなかなかいいネーミングだなと思っている。
お店が目に入ってきたなと思った瞬間,私はなぜか殆ど反射的にブレーキを踏んでしまった。今日あったことを聞いてもらいたいという思いにかられて、ずかずかとお店に入っていった。(実はお店に入るのはこの時が初めてだった。初めてだったにもかかわらず、なんだか違和感なく私は「こんにちわー」と扉を開けた。お店にいたおばあちゃんたちは、まさかこんな時間に先生がふらっとお店に寄るなんて思いもしてなかったと思うのですが、あまりにも自然に私は中に入ってしまった。 (*^^*)
担任の子(3年生)のおばあさんとその妹さん,そしてお母さんがおられた。レジのところに立っておられたおばあさんが,驚く様子もなく,「あ,絵の上手な先生だ」と言われ,にこにこ迎えてくださった。
お孫さんの連絡帳に私は毎日前日の写真と解説を書いたのをカラープリントし,ペタペタ貼っている。そしてさらに空いた空間ににんじんやらピーマンのキャラクターを赤ペンで書き込み,吹き出しをつけて他愛のないセリフやギャグなんかを書き込んで賑やかな連絡帳を毎日生徒に持たせて帰らせている。きっとそれを見て,初対面であるにかかわらず「絵の上手な先生」と言われたのだろう。(^_^)
私はお店の真ん中で,今日地域の方にいろいろと聞いて回ってきたことなどをぺらぺらと一気に話した。すると,教え子のお母さんがやはり店にあった内海町史を出してきて何か見つからないかと探してくださった。その場におられたお客さんも何人か話にはいってこられ,そう言えばしやごしって今まで誰もそんな意味聞いた人いなかったけど何なんだろうねとか,しばしわいわいがやがやパアッとにぎやかなおしゃべりの場になった。
結局「しやごし」についてはわからなかったが,この時私は内海の島の人々の温かさを身にしみて感じた。
どこにいってもまるで自分のことのように,こちらの質問に答えようとして一緒に考えてくれるのである。かつては遠洋にでかけ,フィリピンにまでクジラを捕る仕事などに従事する人が多かったとも聞く。また外国の船員がよくこちらに来ていたという話も聞いた。今はもうなくなってしまったが昔は,映画館やホテルもあったのだとか。
一言でいうと,海と共に生きてきた漁師町の活気のようなものが今も色濃くその文化の中に根付いているのだろうと,私は思う。
楽しい会話の時間を過ごし,別れを告げて帰路についた・・・。が,途中,内海中学校の前に差し掛かったとき,中学校の門の前を通り過ぎようとしたところでまた足が止まった。中学校のU先生に会って今日のことを伝えたい衝動にかられたのだ。
小中学校の先生たちの研修でたまたま出会い,そこで郷土史の話をしたことがきっかけで,意気投合し,以来旧知の友だちのようになった先生である。運動会の準備で音響のスピーカーの調整をしておられた先生はにこやかに迎えてくださり,ひさびさに歴史談話に花が咲いた。
わたしが「しやごし」の事を話すと,「おお,さっそく頑張ってやってますね」と笑いながらご自分の,歴史について考えていることや現在の内海中学校のグランドの辺り(あとから聞いて確認したところによると,神社に向かう参道のところだそうである)は昔砂浜で,港のようになっており,海から砂浜を通って,山のふもとの方にかなり大きなものが格納されるようになっていたということ(ちょうど現在中学校の体育館の建っているあたりとのこと)などの話を始められた。戦時中には大津野飛行場からフロートのついた戦闘機を退避させて隠す場所になっていたのだという半分未確認情報だったが,それについてご自分で調べたことやその可能性についてしばし熱く語ってくださった(後にそのことは事実だったようで,目撃された方の証言も得られたとのこと)。
奈良の箸墓(はしはか)古墳に友だちと二人で行って,夜,卑弥呼の墓ではないかと言われているところに通ずる一本道に車を停めて,さあ帰ろうかどうしようかと思っている時,ジーンズをはいて手にスーパーの買い物袋をぶら下げた若い面長の女性が車に近づいてきて,目で会釈をしたと思ったら,その暗い一本道を,発掘の事務所のある方向にむかって歩いていったのだという。買い物をして事務所に届けるためにでも来たのだろうと思ったそうであるが,いつまでたっても事務所には明かりも灯らず,夜道を帰ってきた人もなかったそうだ。その発掘事務所の向うは箸墓古墳,わき道などないはず。・・・友だちと顔を見合わせて「あれ?」ということになり,しばらくその場にいたのだが,それっきりだったそうだ。
「私ね・・・」とU先生は声をひそめて話しはじめた。「あれ,卑弥呼が現代人の姿をしてうちらに会いに来てくれたんではないかなと思っているのよ。」と,旅先で体験した不思議なことを話してくれた。私はそういうことも一理あるなと思い興味深く聞いた。
もう20年以上前になるが,夢中になって金子みすずの詩に作曲をしていたとき,真夜中に背後にうら若い女性が佇んでいて、その視線をはっきりと感じたことがあったのだ。振り返り誰もいないはずなのだが,瞬間金子みすずがそこにいるとピンときた。こわいとも何とも思わなかった。明け方近い4時ごろだったろうか,疲れていたので,みすずさんごめんなさい,ちょっと今日はここで休ませてもらいますねと心の内で独り言を言って横になると,すうっと気配が消え,私は眠りに落ちた。そんな経験をしたことがあるので,私もU先生の言ったことがあながちうそだとは否定できないのだ。
◆金子みすずの詩に作曲していた時の不思議な体験についてはここ・・・↓(^_^)
https://historyninjin.hatenablog.com/entry/2021/06/13/051717
「結局私のほうは,しやごしの浜のしやごしっていう言葉の意味はわからなかったんだけどね・・・。」などとわいわい話してU先生と別れて帰宅した。帰宅してパソコンを開いた。それまで漢字の「志垣」で検索して,何もないじゃないか・・・と思っていたのだが,「志垣」という文字に囚(とら)われずに純粋に音声としての「しやごし」という言葉で検索してみたら,もしかしたら何か分かるのではないかとふと閃(ひらめ)き,さっそく試してみた。既成概念を取り払ってもう一度一から始めてみようと思ったのだ。
(補足:「志垣」という漢字の地名表記はおそらく、明治になって、地図を作るために付けられた地名だろうと思われます。何か志垣にちなむものがあったのではないかと思われます。それで、そのあたり一体を志垣地区として行政的な区分がなされたのではないだろうかと思われます。そして、その地区の中にあった「しやごしの浜」のしやごしと、志垣がいつからかリンクされて、志垣をその土地ではしやごしと読むような一種の慣例ができたのではないかなと思います。調べたら、この辺のことおそらく何か分かるかなと思います。・・・次の郷土史の課題かな?(*^^*)と思っています。)
すると・・・いくつか下記のような「しやごし」についての情報が検索に上がってきた。
●精選版 日本国語大辞典「ああしやごしや」の解説
ああ‐しやご‐しや〘連語〙
あざけり笑うはやしことば。ああいい気味だ。ああばかものめ。上代歌謡にだけ見られる。ああしやを。
※古事記(712)中・歌謡「ええしやごしや、此はいのごふぞ。阿阿〈音引〉志夜胡志夜(アアシヤゴシヤ)、此は嘲笑(あざわら)ふぞ」
●精選版 日本国語大辞典「ええしやごしや」の解説
ええ‐しやご‐しや〘連語〙
あざける気持をこめたはやしことば。ああいい気味だ。ああばかものめ。上代歌謡にだけ見られる。→ああしやごしや。
※古事記(712)中・歌謡「亜亜〈音引〉志夜胡志夜(エエシヤゴシヤ)此はいのごふぞ」
●ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「上代歌謡」の解説
上代に成立した歌謡。実数 200首ほどの記紀歌謡を中心に,風土記や『続日本紀』『古語拾遺』『日本霊異記』『琴歌譜』などに収められた歌を総称するのが普通であるが,これらのなかには純粋な歌謡といえない個人の創作歌などもかなり含まれており,逆に通常万葉和歌と称される『万葉集』所収の歌のなかにも歌謡と認められるものが相当ある。
上代歌謡は,日本文学の発生や和歌の成立に関する資料として重要であるとともに,強い意欲や素朴な感情の表現として独自の美しさをもつ存在である。
●産経WEST記事 2016/6/28 歌の力・託される思い(1)勝利を祝う兵士の宴会歌
(1/4ページ)【神武天皇・海道東征】
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の東征の最終盤、畿内での戦いの日々を彩るもの。それは歌謡である。古事記では、当芸志美々命(たぎしみみのみこと)の変を知らせた皇后・伊●気余理比売(いすけよりひめ。●=さんずいに順のつくり)の歌謡まで含めると、13首が記されている。
最初に登場するのが冒頭の歌謡。イハレビコを謀殺しようとした宇陀の首長、兄宇迦斯(えうかし)を討った後、恭順した弟(おと)宇迦斯が献上した大饗(おほあへ)(食事)を賜った兵たちが歌ったとされるもので、いわば宴会歌である。
〈宇陀の高く構えた砦(とりで)に鴫(しぎ)を捕るわなを仕掛けたら、私が待っている鴫はかからず、なんと鯨がかかったではないか〉歌謡は前半で、そんな荒唐無稽な内容を歌い、後半で本妻と庶妻を分け隔てする男の身勝手な心情を歌っている。
〈古妻が総菜を欲しがったら、立っているソバの実の少ないところを取ってやれ。新妻が欲しがったら、イチサカキの実の多いところを取ってやれ〉
◇
「鳥を捕獲するわなに海の鯨がかかるという突拍子もない意外性で哄笑(こうしょう)を誘う宴会らしい歌、と解すのが定説だが、戦の禍々(まがまが)しさを祓(はら)う働きをしています」元立命館大教授の真下厚氏はそう話す。古代人は、現実には存在し得ないことや不可能なことを歌うことで強い呪力が生まれると信じていた、という指摘である。
(2/4ページ)【神武天皇・海道東征】
祓いの後は、生命力を求める願いを歌詞に込めている。共立女子大の遠藤耕太郎教授は「本妻と妾(めかけ)の対立という主題は沖縄・八重山の古謡や、朝鮮の祭りに現代も見られる」と話す。たとえば韓国・済州(チェジュ)島の祭り「立春クッ」の仮面劇では、うら若い妾が老いた本妻を死ぬまで攻撃し、葬式を出す場面が演じられる。「生産力のない本妻を冬の象徴として退け、春である生産力旺盛な妾を迎えて豊穣(ほうじょう)多産を祈願する祭りと考えられる。古事記の歌も主題は同じで、冬と春の対立、春の勝利という普遍的な豊穣予祝の原理を見いだすことができます」
◇
〈ええ、しやごしや。これはざまあみろの意だ。ああ、しやごしや。これはあざ笑う意だ〉歌の最後は、こんな囃子詞(はやしことば)である。遠藤教授は、「嘲咲(あざわら)ふぞ」という語の「咲」に着目する。天の岩屋にこもった太陽神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すアメノウズメの歌舞を見た八百万(やおよろず)の神々の笑いも「咲う」と、古事記は表記しているからだ。「『咲』は、弱った太陽を再生させるための冬をやっつける笑いです。現代人が想像するとしたら、試合の流れを変えるスタジアムのどよめきのようなものでしょうね」
(3/4ページ)【神武天皇・海道東征】
イハレビコの東征は畿内に入って軍旅に変わり、兄宇迦斯を討って以後は連勝街道になる。その勝報とともに、必ずと言っていいほど記されているのが歌謡である。勝利を寿(ことほ)ぎ、合図に使われ、戦意を高揚するためにも、歌謡が有用だったことを古事記は示している。
◇
【用語解説】久米歌
東征で登場する歌謡の大半を、古事記は「久米歌」として紹介している。イハレビコに付き従った古代氏族・久米氏の風俗歌舞という意味合いだ。久米舞として今も残り、天皇即位後に最初に挙行される新嘗祭(にいなめさい)「大嘗祭(だいじょうさい)」で奏される。日本書紀は、楽府(うたまいのつかさ)(宮廷の音楽・歌謡をつかさどる役所)で奏す時には舞の手の広げ方や、声の太さ、細さの別が決まっている、と書き、「古式が今に残っている」と説明する。
大嘗祭の神祭りなどに続く宴会「豊明(とよのあかり)の節会(せちえ)」で披露され、無文字時代の歌謡文化を伝えるといわれる。
◇
【用語解説】交声曲「海道東征」
詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が記紀の記述を基に作詩し、日本洋楽の礎を作った信時潔(のぶとき・きよし)が作曲した日本初のカンタータ(交声曲)。国生み神話から神武東征までを8章で描いている。
(4/4ページ)【神武天皇・海道東征】
皇紀2600年奉祝事業のために書かれ、戦前は全国で上演されて人気を集めたが、戦後はほとんど上演されなくなった。昨秋、大阪フィルハーモニー交響楽団の雄壮な演奏で復活上演され、大きな反響を呼んだ。今年も10月3日に再演される。白秋の詩は、記紀の古代歌謡や万葉集の様式を模して懐古的な味わいがあり、信時の曲は簡潔にして雄大と評される。
◆写真:「宇陀の高城」跡といわれる桜実神社の八つ房杉(イハレビコの手植えと伝わる=奈良県宇陀市)
◆スクリーンショット:宇陀の高城を歌った歌謡(しやごしの歌)
これを通して私は「ああ,これが『しやごし』の語源だな」と直感した。「しやごし」の語源は「古事記」というかつて日本が初めて「国」として成立し,初めて国の成り立ちを文書で残すという画期的な事業を成し遂げたのだが,その文献に記された記録の中に「しやごし」という言葉が確認できるということを知った。
その言葉の内容は,武士たちが戦(いくさ)を終えて,敵を打ち破ったときに,仲間を鼓舞し,敵をあざけるときに発した囃子詞(はやしことば)であるという。カムヤマトイハレビコノミコト(後の神武天皇)東征の際,奈良の宇陀の首長との戦いに勝利した神武天皇軍が宴の場で「ええ,しやごしや。此はいのごふぞ。ああ,しやごしや。此は嘲咲(あざわら)ふぞ。」と記述されていることから文献的に確認することができたのである。
古事記の年代記述を文字通りと解釈すれば二千数百年以上前になるが,春秋年という暦の解釈をするならば今から1500年ほど前になるのだろうか,記紀(古事記と日本書紀)編纂の時代には既に「しやごし」という日本語は存在し,人々によって使われており共有されていたという歴史的な証拠を見つけたと言うことができる。
意味は敵をあざわらうときに発せられた囃子詞(はやしことば)で,「ああいい気味だ,ああ馬鹿者め」ということになる。敵をあざけるというと心象が良くないが,問題はその言葉が発せられた状況を多角的に捉えて現代語的に,またふるさとに受け継がれてきた文化を大切にしようという観点で解釈するということが今日を生きる私たちにとって必要になってくると思われる。
私は「しやごし」の語源について,2021年7月9日に,そのことの結論をダイジェスト的に一つの文章にしたが,その中で次のように書いた。
【敵をあざけり退けると同時に,犠牲になった味方の武士(もののふ,仲間)への弔いの意味をも込めて発せられた,勇ましく戦った者たちを称える言葉でもあったと解することも可能ではないだろうか。勝った者の驕(おご)りとしてではなく,更に敵の犠牲者に対しても向けられたかつての武士(もののふ)たちのあわれみと気概のこもった言葉(言霊:ことだま)であったため,内海の「しやごしの浜」の名前(地名)は,1500年の歴史を経てもなお,その意味を知る人がいなくなっても,綿々と語り受け継がれてきたのだと思うのです。
内海町内浦(うちうら、またはうちのうらとも)の皇森(こうもり)神社は神武東征の際,8年間神武軍が居留した「吉備の高島」の比定地の一つとされていることを鑑みても,この内海の「しやごしの浜」が神武東征の際の一つの局地戦の舞台となったのではないかとも想像されますが,この浜に思いを刻んだ者たちの,国人(くにびと)や里を思う思いが静かに深く刻まれた場所であったのではないかと考えられます。ふるさとの地名に刻まれた,いにしえの人の心をしっかりと受けとめ,これからもこの地名を大切に受け継ぐ縁(よすが)として,この略文を閉じたいと思います。】
しやごしの浜のことを知ってから,小学校に通勤する時,私はわざとしやごしの浜の横を車で通るようにしている。ある日帰り道,車を停めて夕日を眺めていると,近くに住むおばあさんが歩いて来られたので,なにげなく「聞く話によるとこのしやごしの浜は昔はもっと広かったそうですね。」と話しかけた。するとそのおばあさんは「そうそう」と言いながら昔まだ舗装道路になる前のことを話してくれた。しやごしの浜は海水浴場だったことも教えてくれた。今でも少ないけれど,(シャワーがないので)自分で体を洗う水を持参で来る人もいるよ,とのこと。しやごしの浜を左手に見て,横島の港の方にむかい大きく右に曲がる角のところ(切りとおしになったところ)に松の木が生えているけれど,あれをみんなで「まんがりまつ」と呼んでたんだよ,とも言われた。
わたしは一瞬「まんがりまつ」が分からなかった。おばあちゃんの顔をみながら「はあ,そうですか」と返事するうち,「あっ,『曲がり松』だから『まんがりまつ』なんだな。」とピンときて,帰りながら何だか大切なことを自分一人だけ知ったような気持ちになり思わず微笑んだ。それからは帰るとき,その曲がり角を曲がるときは,「まんがりまつ,まんがりまつ」と心の中で唱える。その切りとおしの海側の部分に,後から植えられたのか自生しているのか,岩場に必死に這うように生えている小さな松の木がある。それが「まんがりまつ」そのものなのかどうかは分からないが私は心の中で「まんがりまつ,まんがりまつ」と思い出すたびに唱えている。
ふるさとのことに関心を持っていろんな出会いの中で眺めていくと面白いことにでくわすものだ。意図的に計画してできるものではない。特にふるさとの歴史(郷土史)に関することは人との出会いで決まるといっても過言ではないと思う。
藤江小学校に勤めていた時,江戸時代に栄えた藤江の山路家という豪農について知ったのも,地元でこつこつと郷土の歴史を調べていたあるご老人(今年の5月で90歳になるMさん)に出会ったからだ。出会ってから今年で8年になるが,いまだに親交が続いており,つい先日も松永にある馴染みの喫茶店に二人で行ってふるさとの歴史談義に花を咲かせた。
「ふるさと」という言葉を聞くと,私には一つの思い出(物語)がある。こんな物語だ。
私は福島県の郡山市(鶴見坦:つるみだん,というところ)に生を享け,幼稚園前に福島市の森合(もりあい:信夫山「しのぶやま」の裏手北側の地域)の長屋風の住宅に引っ越し,ほどなく幼稚園に上がるとき野田町(現在須川町)を流れる川(・・・阿武隈川の支流の荒川,当時はみんな須川と呼んでいた)のすぐ近く,須川神社の隣の小さな借家に移転した。(須川神社はその後火災で消失し,現在はアパートが建っている)
信夫(しのぶ)山風景
須川町には2年生まで住んでいたが,父の仕事の関係で,小学校3年生になるとき,青森県の八戸市に引越した。言葉や気候、生活風土ががらりと違う世界を目の当たりにして,一種のカルチャーショックのようなものを受けたが,何よりも私の中に強烈に「ふるさと」というものを思う思いが胚胎されたと思う。どこにいても,どこに住んでもそこを自分のふるさとと見なし,感ずることができるかという,ある種挑戦的な思いが私の中に宿るようになったようである。
「住めば都」という諺があるが,自分が置かれた場所で,自分なりの花を咲かせようという,前向きの思いと言えるだろう。その思いは父から受けついだものと思っている。その思いの原型は生まれた福島に対する思いにあると言える。生涯福島は私の記憶から消えることはないだろう。
私の先祖は本家のおじさんによれば,伊達政宗のお父さん,伊達輝宗の側室とのこと。伊達家の本家の家紋が「笹に雀」であるが、野崎家の家紋は「竹に向かい雀」という家紋である。伊達家の分家により愛媛県の宇和島にあったが,江戸時代福島県の西白河郡にいた遠縁の野崎氏を頼って移動し,一時期福島県の会津の近く,猪苗代湖畔に居留していた記録があるらしい。
その後その野崎氏は,西白河郡に先に定住していた遠縁の野崎氏と合流し,西白河郡の東村(現在は白河市東町),釜子(かまのこ)という地域に定住するようになった。定住してから15代ほどになるらしいが,もともといた野崎氏と,新しく移動してきた野崎氏は,緩やかな地縁的血縁的共同体「野崎まげ」(地方によっては「まき」と呼称するところもある。日本独特の地域共同体を呼ぶ方言的な概念なのだろう)を形成して土着するようになったという。
もともと東村に定住していた野崎氏は,東北地方における源氏と藤原の戦い(前九年の役、後三年の役,11世紀の中ごろから後半にかけて奥羽で行われた戦役のこと)の際,源氏側として戦い,敵味方の戦没者を弔うために東村,釜子に定着するようになったと伝えられている。東村は源氏と藤原の激戦地であったらしい。私の家系は村の中ほどに位置している「長伝寺」という曹洞宗のお寺の檀家として村の庄屋として尽くしてきたようである。
長伝寺本堂
そんなこんなが,私の「ふるさと」というものに対して持っている原体験的な世界なのだ。いつもなんとなく潜在意識の中で「ふるさと」というものを試行錯誤的に追い求め,それをベースに時に歌という形にして表そうとしたり,人との出会いを大切にしようと考えたり,すこしでも前向きに生きようと頑張ったりしてきたといえるのではないかと思われる。
幼くして生まれ育ったふるさと福島を離れたという経験から,おそらく私は人一倍「ふるさと」を意識するようになったのだと思う。「自分が置かれた場所で,自分なりの花を咲かせようという,前向きの思い」と書いたが,実はそこに至るにまでにはある長いプロセスがあった。はじめからそのような前向きの見方ができていたわけではない。
ふるさとを失った者が失ったふるさとを求めて彷徨(さまよ)う世界を,随分長い間彷徨ってきたと言うことができる。ちょうど幼くして親を失った者が無意識のうちに親を探して彷徨う世界と似ている。
私はかつて,ふるさとを持っていてそのことを意識することもなく生きている人を見ると,とても羨ましく思ったものだ。と同時に,ふるさとに住んでいながらふるさとのことを知らず,関心も持たない人を見ると,不思議で仕方がなかった。よくそれで生きていられるものだと思ったこともあったが,現在ではそれらの全てを,「ま,そういうこともあるさ」と思えるようになってきた。
小学校3年生になろうとするある朝,福島駅から各駅停車の蒸気機関車に家族全員(父と母,祖母と兄弟5人)と1匹の猫と一緒に乗ってひたすら走り続け10数時間,真っ暗な深夜,八戸駅(当時は尻内駅と呼ばれていた)に着いた。タクシーに乗って30分ほど走っただろうか,日計(ひばかり)というところにあるこれから新しい生活を始める少し大きな田舎の借家に着いた。
冷たい布団に身を横たえた日(1963年3月27日),涙が止めどなく流れた。私は声を圧し殺して泣いた。あの時のえもいわれぬふるさとを失った悲しみと孤独の世界は言葉では語れない。
高校1年の時(1970年),大阪万博があったので,前倒しで修学旅行があった。その時私は小学校2年生の時に福島を離れてから初めて列車で福島を通過することになる。信夫(しのぶ)山が見えてきたとき,夢中でカメラのシャッターを切った。やがて福島駅を通過して阿武隈川を列車が渡るとき,遠くのほうに私が幼い日を過ごした須川町が見えはしないかと目をこらした。あっという間に列車は過ぎていく。溢れようとする涙を押しとどめて,私は友だちから少し離れてしばらく黙ったままでいた。なぜ自分がそんな行動をとるのかは,実は本人でもわからない。そんなものがきっと「ふるさと」なのだろうと私は単純に思っている。
仕事の関係でいろんなところに住んできた。順に並べてみると,京都,西宮,神戸,大阪(天王寺),東京,再び大阪(豊中),兵庫県の伊丹,姫路,そして最後(?)に辿り着いたのが妻の生まれ故郷福山。福山に住みながらやはり仕事の関係で,三原,尾道,そして福山を巡った。そして56歳のとき,転機が訪れる。
大正生まれの父が亡くなる少し前,いなか町の病院に入院中の父を見舞った。ふと何気なく手に持っていた本に父のサインをもらいたくなり,ちょっとこれに一言書いてくれない?と差し出した。その言葉が,現在の自分を支える遺言になるとは,その時思ってもいなかった。「前向きに生きる」・・・そう書いて,父は私にその本を手渡してくれた。
父の死後,私は50歳半ばにしてそれまで35年勤めた仕事を辞め,新しい人生を歩き始めようとしていた。3ヶ月間職を失い,ハローワークに足を運んだ。ある日書類を出して面接を受けていると,テレビの周りが騒がしくなった。目をやると,津波が仙台平野を這い回るように動いている映像が目に飛び込んできた。東日本大震災のニュースが流れていたのだ。
連日,緊急警戒放送のあの何とも言えない音が携帯電話から何度となく響いた。被災された方への心の痛みと共に,職を失った者が味わう不安の中,ほとんど眠れない夜が続いた。知らないうちに私は父のことを思い出し,心の内で呪文のように「お父さん、お父さん」と繰り返し呼んでいた。
大正2年生まれの父は,幼い日を東京(水道橋)ですごしたという。関東大震災を経験し,二度召集を受け中国に渡り,通信兵として参戦し生きて帰還,終戦当時神奈川の鶴見飛行場で整地作業にあたっていて米軍の爆撃にあい,15メートルほど先に確か50キロ爆弾が落ちてきたという。とっさにちょうど近くにあった50センチほどの深さの溝に身を伏せた直後爆弾が炸裂。溝がなかったら吹っ飛ばされて死んでいただろうと話してくれた。
90歳を過ぎて入院中の人間が,何ものにも絶望することなく,淡々と「前向きに生きる」をモットーとし,それを息子である私に書き贈ってくれた。
私は眠れない不安に苛まれる真夜中,何度も我知らず「お父さん、お父さん」と心の中で呟いた。助けて欲しいとは思わなかった。ただどこかにいて欲しかった。話せなくても,せめて心の中だけでいいので,繋がっていて欲しかった。それ以上のことは考えなかった。 生きていくのは私,責任を執るのもこの私。父ではない。それは私にとって当然のこと。ただ,この小さな不肖な息子がここにこうしていることを知っていて欲しかった。それだけだった。
やがて,偶然ある方の言葉に突き動かされて,私は教育委員会の戸を叩き,1年間の非常勤講師を経て臨時採用され,現在に至ることになる。少し先入観が入るが,歴史を調べていくと,戦後アメリカの占領軍のGHQ(ゼネラルヘッドクォーター)の置き土産であるところの「教育委員会」という組織を,当時私は快く思ってはいなかった。GHQの特にGⅡ(ジートゥー)という部門と聞いているが (後にさらに調べるとGⅡは保守的な傾向があり、過激だったのは「民生局」という部署だったようである・・・),それはアメリカの中に巧妙に入り込んだ完全にソ連系共産主義の工作機関であり,日本の良き民族的国家的歴史的かつ文化的伝統を完膚なきまでに叩き潰す政策,WGIP(ウォーギルドインフォメーションプログラム)を展開したということを私はいろいろと調べるうちに知った。だから,当時の私には,自分から教育委員会に足を運ぶ可能性は全くなかった。にもかかわらず,結果として足を運ぶようになったのは全く「ある方」の一言によるものだった。
日本は私にとって,愛する祖国である。人生半ばを過ぎて一層そう思う。様々な気に入らない問題や政治的状況があっても,何とか真実の美しい国になってもらいたいし,そうしたいと思っている。また,そのために何かできることはないだろうかと素朴に思っている。
小さい時喧嘩に負けて母に泣いてしがみついた時,よく母は壁に掛けてあった宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩を読み聞かせてくれた。私は何度も母の膝でその言葉を歌のように聞いた。母は最後に決まってこう言った。「負けるが勝ちなんだよ」と。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は知らないうちに私の魂の中で生き続けたのだろう。教職に就いて2年ほどしたある日、忽然とその詩にメロディーがついて心の中から溢れてきたので、一心に楽譜に書き留めた。そしてその年,先生たちの食事会の集まりの場でギターを奏でながら歌い披露し,とても喜ばれた。賢治が描いた詩の主人公のようには,私はとてもそんなふうには生きることはできないなと思いながらも,あるところで繋がりを持ちながら,私は私として生きて行こうと思う。宮沢賢治は,私の心象風景のふるさとであるといえる。
福山が生んだ童謡詩人がいる。本当は教育者なのだが童謡詩人といって紹介したほうが分かりやすい。「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」で知られている葛原しげるだ。生涯3000から4000の童謡,校歌,古典的詩歌などの「詩」を生み出した。その葛原しげるの詩に「天狗松」という詩がある。葛原しげるが上京して20年ほどしたある朝,ふとふるさと(広島県神辺の)八尋(やひろ)のことを思い出して作った詩だという。ある人に勧められてそれにメロディーをつけ,神辺町八尋にある葛原しげるの生家で行われた葛原祭りに顔を出し,その曲を披露するワンステージのトークを交えたライブ演奏の場を持たせてもらったことがある。それをきっかけに,天狗松は合唱曲に編曲され,地元の合唱団「夕日の里合唱団」のみなさんと,地元の子どもたちも交えて何度か合唱したことがある。後日,詩の中に出てくる「天狗松」という松が気になり,いろいろ調べていくうち,東京にお住いの葛原しげるのお孫さんの葛原眞さん(残念なことに一昨年他界された・・・)に問い合わせたところ,葛原しげるの生家の南側の山(葛原山と呼ばれている)の上にその松があり,よく覚えていますよという返事をいただいた。天狗松という松は詩の中だけの架空のものではなかったのだ。葛原しげるの詩には20曲ほど作曲しているが,天狗松を介して葛原しげるも私にとって,心象的なふるさととなった。
◆天狗松に関するエッセイ
https://historyninjin.hatenablog.com/entry/2023/10/15/012323
青い海と青い空に浮かび上がる内海,2年間小学校で教鞭を執らせていただいた。島の人々との温かいふれあいの中で,ここも私のふるさとなのだということができるようになってきた。最後に内海のことを歌った「わがふるさと内海」の歌詞を載せて,本稿を閉じようと思います。どこかでお会いしたら,どうか気軽に声をかけてくださいね。
◆「わがふるさと内海」(卒業バージョン)
(イントロ)
真っすぐに天に向かって すっくと聳え立つ 椰子の木たちの清々しさ
内海の島のメインストリートを 走り抜けると目に入る 椰子の木たちの清々しさ
嗚呼私たちもあの木のように 嗚呼私たちもあの木のように
嗚呼私たちは 嗚呼私たちは 巣だってゆく
(ここから主題)
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
田島と横島が手を携えているよ
田島と横島が口づけをしているよ
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
海と共に生きてきた島人の心
海風の光の中に輝いている
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
田島と横島が手を携えているよ
2022年(令和4年)3月25日記
historyninjin
わがふるさと内海(島人バージョン)
島人バージョンは卒業バージョンの歌詞の「巣だってゆく」を「ここに立つ」にしたものです。(^_^)