Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

岩畳神社 岩畳の上の小さな祠

 福山市の北のほうに駅家という町がある。その一番奥まったところに雨木(あめぎ)という地域が広がる。かなりの部分が山であり、山から流れ降りてくる水流が集まり服部川を形成し、福山初代藩主水野勝成(1564~1651)公が開墾を命じて作った服部大池へと注いでいる。地元の人の尽力で河川環境の維持とホタルの保護育成がなされ、毎年6月になると沢山のホタルが舞い、人々の心を楽しませてくれる。

 昨年統廃合で111年続いた服部小学校は、その歴史に幕を閉じた。一昨年5月のある日、いつもより早く出勤したついでに小学校を通り越して雨木の山道を車でのぼってみた。

 山道をずっと行くと福山で二番目に高い蛇円山(じゃえんざん、標高546m)に通ずる。その日は山道を入ってすぐの灌漑用のアースダムになった雨木池のところまで行って、高台から服部の田舎の町を見下ろした。山鳥の声が耳に心地よく響き、綺麗な水面に周囲の山の緑が映えて目に鮮烈に焼き付いた。

◆蛇円山(じゃえんざん):備後富士と呼ばれる美しい山、標高545.8m、ずっと福山市で一番高い山だったのだが、2003年に新市町と合併したことで、新市町の京ノ上山に次いで二位になった。京ノ上山は標高611.2m

 しばし、池のほとりに佇んでいると、静かにメロディーが心に響きだし、雨木がかつてどんな歴史を超えて来たのかは知らない私だったが、里に住む人々の今まで営んできた様々な曲折があっただろうその営みを思いさらりと一曲の歌ができた。

    ♪緑深きふるさと 

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 仕事を終えて家路をたどり、ふと「雨木」でネットを検索してみたら、さらに行ったところに1000年ほどの歴史を持つ岩畳神社という名前の小さな祠が祀られていることを知った。

 ふーん、こんなところがあるのか、と思うと、次はそこまで行ってみようと、心は雨木の岩畳神社に飛んでいた。

 しばらくしてその岩畳神社に行ってみた。細い山道を曲がりながら登っていくと鳥居が見え、小高く道脇にせり出して高くなったところに、大きな岩盤がありその上に小さな祠が安置されていた。左横に大きな砲弾が上を向いて置かれており、見ると日露戦争凱旋記念に地元から出征した方によってここに祀られたもののようである。

 

 祠の中にはこごめ石(結晶質石灰岩)で作られた宝篋印塔の頭部が安置されている。おそらく昔の名のある武将の墓の頭部ではないかと思われる。それを御神体として祀ってあるようだ。祠は元々あった大きな岩盤(これが岩畳の由来で、本当の御神体はむしろこちらの方かも知れない)の上に後に安置され祀られるようになったのではないか私には思われた。

 鳥居に登っていく手前の案内板の説明に「神田さん」という言葉があり、神様の田んぼのことかな、かんださんて読むのだろうと思って読み過ごしていたが、後日、地元の方にそのことを聞いたら、「いやあれは、じんでんさんというのじゃ」と広島弁(福山弁)で教えていただいた。その方からは雨木地区にそびえる500mを超える蛇円山から吹き降ろす寒風を古来「蛇円おろし」ということも教えていただいた。地名の由来だが、その方が言われるには、雨が滝のように木に降り注ぐ様から雨木という地名になったのではないかなとのこと。

 珍しい名前だなという印象と同時に、私の心の中では一種の詩的な響きのある言葉として記憶された。

 後日、足を運んだ岩畳神社の佇まいや周辺の緑深い山の風景や、そこを吹きわたる気持ちのよい風の感触、キラキラとした日の光の印象などとともに、心の中から音楽が響き出し一曲の歌になった。子ども達に歌って聞かせるとすぐに気に入って覚え、ことあるごとに一緒に歌うようになった。

    ♪岩畳神社 

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 かつては機織りが盛んな地であり、そのことから地名が服部(はっとり、はたおり)でありこの周辺は福山の歴史においてかつては一大繊維産業の拠点でもあったのだ。

 私の目に映るのはその断片であるが、いろいろ探したり訪れたり関心を持って調べたりしていくと点と点が繋がり、やがて、過去のふるさとの歴史やそこに生きた人々の様子などが生き生きと蘇り、私たちは決して「今」という切り取られた目に見える現実の枠の中だけに生きているのではなく、いろんな人とともに、いろんな歴史的背景と共に生きているのだと思えるようになっていく。私はそう思う。

 人が宿痾として持っている、えもいわれぬ「孤独という不安」を越えることのできる秘訣は、案外こんなところにあるのかも知れない。

 

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