◆藤江の里物語②◆
♪「一筆」
楽曲「一筆」創作の契機となったのは、未開牡丹の詩会が当時の時代背景から考えて単なる優雅な漢詩の集いではないと考えたことによる。江木鰐水(がくすい)の序文(漢文)を眺めたとき、読めない漢字語が多く詳しい意味はわからなかったが、切々たる国防の危機的状況と意識を踏まえて書かれているという気迫のようなものがはっきりと伝わってきたのだ。
対外的には一部「観光詩集」というタイトルを冠して発行された未開牡丹の詩集であったようだが、それは一種のカモフラージュだろうと思う。
序文を後に江戸幕府老中主座,阿部正弘が福山に創設した藩校誠之館(現在は県立誠之館高校)の同窓会の史料研究室に持ち込み現代訳をお願いしたところ、有志の方の好意と協力により現代文に訳しホームページに掲載してくださった。
また、山路機谷の肖像については地元の歴史に詳しいお年寄り(M氏)と二人で、戦後広島のほうから藤江に戻ってこられた山路家の分家、久屋山路家の現在の当主にあたる方のお宅に伺い、掛け軸などさまざまな資料(蔵に眠っていた遺品等)の中にあったものの中から許可を頂いて撮影し、誠之館に持ち込み、史料室主任のMさんの好意でホームページにアップしていただいたものである。
●山路機谷について
https://seishikan-dousoukai.com/archive/jinmeiroku/yamaji-kikoku/yamaji-kikoku.htm
●江木鰐水による序文の現代語訳
ここから下は、私の小説的な創作であるが、当時の気迫のようなものが描けていればいいな、と思っている。
◆郷土史の谷間から(「未開牡丹詩序」に寄せて)◆
幕末の福山藩の重鎮、江木鰐水(えぎがくすい)は渋々筆を執った。
地元の豪農、苗字帯刀を許された岡本山路家の七代当主、山路機谷(やまじきこく)が、髪を振り乱し衣服を整えもせず、日参しては、二年ほど前の嘉永六年(1853年)春三月に文筵(ぶんえん)を張った「未開牡丹詩宴」の漢文詩集の序文を書いてくれと懇願してきたからである。
未開牡丹の詩宴から三カ月、1853年6月、かねてから来航が予想されていたアメリカからの使者を乗せた黒船が、ついに浦賀に姿を現した。
それまでも、何度も外国船は日本に様々な要求をもって来航していたので、当初浦賀の町や江戸市民は驚きもしなかっただろう。驚いたのは、大砲であった。
それまでの大砲は、いわば鉄の玉をドカンと放り投げる武器であって、飛んできてドカンと落ちれば、落ちたところの建物や人間に多少の被害はあるが、いうなればその程度であって、そうであったならば何にでも興味をもって飛びつく江戸市民も、幕府も驚きはしなかっただろう。
しかし、今回はちがっていた。飛んできた砲弾がドカンと落ちたと思ったらなんとその瞬間凄まじい勢いで爆発したのである。
これが「じょうきせん(蒸気船)、たった四杯(しはい)で夜も寝られず」の内訳だったのである。
翌年ペリーは再びアメリカ大統領の親書を携えて来航する。その時江戸詰めを命じられていた江木鰐水は、藩主にして江戸徳川幕府老中主座、阿部正弘からペリーと会うように命令を受けている。
国事に奔走していて、やっと福山に戻ったと思ったら、山路機谷がやって来た。
挨拶もそこそこに機谷は、江木鰐水も参加している、鞆浦(とものうら)対潮楼で、勤皇の思想家や詩人約200名を集めて行われた(経費、旅費、宿泊費等は、スポンサーの山路家がそのほとんどを持ったものと思われる)未開牡丹の詩筵の詩集を上梓(じょうし)するに当たって、そこに序文を書けと形相を変えて迫ってきたのである。
両者とも頼山陽を介して親しい間柄、遠慮も何もなかったのだろう。何とか詩集を出したいという機谷と、国事の中、これからの藩のありかた並びに国の行く道を考えていた江木鰐水。
あまりにもしつこく迫られて、当初は気乗りしなかった江木鰐水だったが、機谷がこんなにまでこの詩集に執着するには何かあるのだろうと思い、やっと渋々と筆を執ったのである。
しかし、一旦筆を執ると、鰐水自身も驚くほど筆は紙の上を走った。まるで穂先から文字が生まれてくるようだった。
序文は次のように始まる。
「嘉永六年三月藤江の山路機谷は、鞆浦對潮楼に於て文筵を張(もう)けり。両日(2日間)未だ開かざるの牡丹を以て課題と為す。
緇素(しそ:僧侶と俗人の意)相会するは一百餘人。詩凡(およそ)百八十九首を得て、慊素せん藤(けんそせんとう:けんそは書画を描くための白いかとり絹のこと、けんの字は糸偏、せんとうは藤を材料としてすいた紙のこと、せんの字は炎にりっとう)は壁に貼り満堂撃鮮挙白(げきせん、きょはく:肉をほふりさかずきを交わしの意)して、所謂(いわゆる)日東第一の形勝を几席(きせき:ひじかけとしきもの)に玩(あそ)ぶ、実に一時の盛会なり。、、、」
江木鰐水(えぎがくすい)の筆は止まらない。あのときのこと、このときのこと、主君阿部正弘公の顔が浮かんでは消えた、機谷(きこく)が髪を振り乱し戦国の武将たちの死に様のことを声を枯らして叫ぶ形相を思い出した、そしてペリーの物腰を思い、江戸から福山までの道のりを思い浮かべた。
走馬灯のように、という言葉がある。フラッシュバックともいう、鰐水は目を右上に動かし転じて左上に動かし、不意に現れる生まれ故郷の河知(こうち:広島県三原市の田舎)の懐かしい山河の景色をあわてて打ち消し、今ここでこうして筆を握っている自分を凝視した。
序文は続く。
「余も亦(また)焉(これ)とともにす。すでにして亜墨(アメリカ)船が浦賀に入り、魯西亜(ロシア)舶長崎に来り、海防の議、焉(これ)を興こす。
余、一介の書生なるも、亦深く杞憂を抱き、役せられて奔走す。
文雅風流の情、地を掃い前日を回想すれば盛会は夢寐(むび:夢を見ている間の意)の如くなり。
安政二年秋、始めて帰国。機谷方(まさ)に当日得たる所の詩を取りて分體序次(ぶんたい:分裂、じょじ:順序)歌梓して世に示さんとして、序を余に請ふ。
余曰く機谷の風流は、猶ほ故あるがごとし。余則(すなわ)ち暇あらざるなり。
棄てて顧みず。、、、」
今風に言えば、「ああ、あの時(鞆の浦で開いた盛大な漢詩の会)は楽しかったなぁ。おれも末席をけがしたが、やあ、いろんな奴等と談食して酒を酌み交わし、国を論じたが、、、
だが、今は主君(阿部正弘)の命を受け、この福山藩の守備を任された。眼の回る忙しさだ。機谷、おまえさんの情熱はわからぬでもないが、とてもじゃないが時間がないよ。」といったところだろうか。
気にはなるものの、鰐水にはやらなければならないこと、処理しなければならない実務、対応しなければならない様々な用件、案件が余りにも多かった。
中でも頼山陽のところで一緒に起居して山陽の激越ともいえる薫とうを受けて育った門田朴齋(もんでんぼくさい)が、余りにも過激な尊皇攘夷の論陣を張って譲らず、ついに藩主阿部正弘に謹慎膣居を命じられ、半ば路頭に迷っていることは、鰐水の心を痛めていた。
そのようなとき、西国政治の要衝、福山守護の命を受けて、久しぶりに帰藩してみるとどこでどう聞き付けたのか山路機谷が髪の毛を振り乱して、襲いかからんばかりに鰐水に詩集の序を書けと迫ってきたのだ。
訝しく、また失礼ではないか、と鰐水が思っても不思議ではない。
しかし、鰐水の胸の奥に、もどかしいようなもやもやした蟠(わだかま)りが江戸にいるときから渦巻いていたのも事実だった。その意味が今、機谷に会って、もしやこれでは・・・と思いあたったのだ。
幕末、松下村塾で吉田松陰が「狂え」と言ったそのこととよく似ている。
鰐水は自分はこの大きな歴史の中で、今まで主君に抜擢された誇りと、主君からくだされた命を守り無我夢中でここまで来たが、そういう自分は歴史とどう向かい合ってきたのか、という疑問とも自戒ともつかない思いを実は抱いているのだった。
「自分はこの機谷ほどに狂っているのか?」という素朴だが強く心に沈む悔いの思いが鰐水を撃った。
はじめは渋々筆を執ったことは否めない。が、ともかく鰐水は筆を握った。
とたんに、穂先がぶるぶると震えた。
震えがとまらなかった。鼻水が、涙が込み上げてきた。この先、藩の命運を、国の運命を、自分が背負わなければならないとしたら、、、とても堪えられないとさえ思った。
行く道が見えないのだ。いや見えてはいるのだが、その先に立ちはだかるもののあまりもの大きさに押し潰されそうなのだ。
それを主君阿部正弘は、笑みを浮かべるようにしながら、新しい人材を大胆に抜擢しながら、会議に大義を乗せ、国政の中心に立ち、病を押しながら過酷な激務をこなしている。
ぶるぶると身震いしながら、鰐水は正弘から「福山のことは頼む」と言われた一言を思いだし、溢れる涙を拭うことができなかった。
、、、、
♪「一筆」