Ninjin History Blog

広島県福山市近辺の歴史について書いてます

藤江の里物語③ 郷土史の小径(こみち)より

    藤江の里の物語を少し発展させます。今回は頼山陽から斬り込んでみます。

 

郷土史の小径(こみち)より◆

 

 頼山陽はかなり繊細な神経の持ち主だったようだ。しかし一旦志を立てると真っ直ぐにそれに向かって突き進む気迫を隠そうとはしなかった。

 

 勘当され、備後の廉塾を立ち上げた菅茶山のところに引き取られた時もそうだった。山陽の才覚に惚れた菅茶山が頼山陽を養子に迎えたいと願った際、こんな田舎に生涯埋もれるつもりはないと茶山に悪態をついて、天下の中心地、京を目指して出奔してしまう。

 

 誰が手を回したか定かではないが(案外、蹴られた菅茶山かもしれない)、そんな浮浪人のような山陽を受け入れたのは、大坂の漢詩人、篠崎松竹だった。

 

 篠崎松竹のおおらかさが山陽には幸いしたのだろう。山陽はのびのびとその才能を発揮するようになる。

 山陽に惚れた尾道の女流日本画家、平田玉蘊(ぎょくうん)が母と一緒に山陽の本心を確かめようと大坂まで追いかけて行ったという。

 

 既に熱が冷めてしまったせいか、それとも一書生の身では妻帯は不可能だったからか、それとも当時のならわしではそう言うことは忌み嫌われていたからなのか、山陽は首を縦に振らなかった。

 

 決然と踵をかえして玉蘊は母と一緒に尾道に帰り、母を養いながら日本画家として大成する。地元の豪商などが温かく見守る中で。

 

 このあたりのことは、山陽研究家の池田明子氏が検証したことにより、玉蘊に対する地元の評価が激変し、いまでは平田玉蘊顕彰会が作られているという。喜ばしいことだ。

 

 山陽の日本外史というある意味徳川政権を批判する危険文書がよく発行されたものだ。そんな疑問を、地元の郷土史研究家のM氏に聞いてみた。笑いながらこう答えられた。

 

 そりゃあ、(徳川)ご本家の水戸家が大日本史という堂々とした徳川体制を批判する歴史書を出してますからなあ、あれがあったから発禁処分にならずに世に出たのではないですか、との答えだった。

 

 何も知らなかった私は、ただ目を輝かせて話に耳を傾けるばかりだった。つくづく郷土史はおもしろいなあと思ったひとときだった。

 

 日本外史は幕末の志士たち等に広く読まれ、もしこれがなかったら明治維新はなされていなかったのではないかということさえ言われている。その可能性はあるだろう。

 

 私の郷土史研究の出発点になる、備後国沼隈郡藤江村、その藤江にお住まいのM氏はさらに言う。頼三樹三郎(山陽の三男)と親交のあった藤江村の豪農山路機谷は、(その先代のことかも知れないが)頼山陽日本外史の原稿原本を藤江村に保管していたのだとのこと。歴史のことによったら、重大な秘密ともいえる言い伝えをさらりと教えてくれた。

 

 明治になり没落した山路家(本家を含め屋号を持った11軒)は悉く多大な負債の責任を負って藤江村を去り、四散してしまうが、その際目ぼしい財産その他は混乱の中でほとんど処分されたり消滅してしまったりしたようである。

 

 そういうわけで、日本外史の原稿原本のことは、今では「遠い日の神話」になっている。もし、現物があったとしても、地元に山路家文化保存会とか顕彰会のような基盤があればまだしも、現在は見る影もないのが実情だ。(なんとかしたいなというM氏と私は、今もたまに会ってはお茶をしながら、いろんな四方山話をしては、何とかならないかと考えてはいるのだが・・・)

 

 菅茶山をけとばして上京してしまった頼山陽だが、里帰りするときは必ず備後国神辺の菅茶山を訪ねている。また、スポンサーなのだろう尾道の橋本家などの豪商を訪ねたりしている。弟子の宮原龍(節庵)などは自分の家によく山陽が泊まったりするうち、山陽の弟子になった人だ。

 

 宮原龍は山路機谷とも親交があり、明治2年に亡くなった機谷の墓碑の揮号をしたためている。ついでに言うと、現在の尾道市西土堂にある浄土宗持光寺にある平田玉蘊の墓の文字を書いたのも宮原龍だ。山路家は尾道の豪商を通して、和船の帆布の販路を開拓していたというので、その辺りと何かの繋がりが見えて来るのではないかなと私は見ている。

 

 菅茶山の漢詩は、完全に中国語だという。驚くべき語学力と言うしかない。しかし、その漢詩で詠んだ内容は、さらに驚くべきことに中国人には詠めない(意味を共有できない)らしい。読むことはできるが言葉の意味もわかるが、心を共有できないということらしい。

 

 しかし、その漢詩を和歌にして読みかえる(解読する)と、忽然として日本の懐かしい田舎の温かな情景が現れてくるという。驚くべきことだ。

 

 ・・・ということは、茶山はなんと漢詩で和歌を詠んでいたのだ。言葉を失ってしまう。

頼山陽漢詩もそれと同等か、歴史を扱ったという点においては菅茶山以上だったということもできるだろう。

 

 いつだったかネットで、日本の漢詩は、菅茶山、頼山陽を頂点として、本国(中国)の漢詩のレベルを越えたのだという情報を目にしたことがある。越えたかどうかは別として、全く遜色なくなったのというのだ。その伝統を継承したのだろう明治の元君たちの漢文の知識は半端なくすごいものだったということは確かのようだ。そしてそれらの知識や技術的なものまでも理解し消化できる文化的な力量の総体が日本をして西洋と互角の近代国家へと創り上げていったのだろうと私は思う。

 

 実に、大和言葉恐るべし。今後さらに研究が深められることを期待する。

 先に書いた頼山陽の思想と気骨を一番受け継いだと思われる頼三樹三郎は、安政の大獄で斬首されてしまう。

 老中主座福山藩主阿部正弘が弱冠39才で過労から病死したあとを継いだ、大老井伊直弼による反対派弾圧の中で命を落としたのだ。

 

 藤江村に6年間かくまわれて志を持った人を教えた森田節齋の弟子とされる、梅田雲浜(うんぴん)、吉田松陰、そして頼三樹三郎の三人が斬首されるという歴史を私たちの先人は駆け抜けてきたのだ。

 

 さて、頼山陽の面倒をみた篠崎松竹は、人気のあった頼山陽の弟子の教育も行っている。その中の三羽がらす、江木鰐水(えぎがくすい)、関藤藤陰(せきとうとういん)、門田朴齋(もんでんぼくさい)は藩主阿部正弘に抜擢されて幕末の福山藩の藩政の舵取りをしている。

 

 また、藤江村の豪農岡本山路家七代当主、山路機谷は幼いとき廉塾の都講藤井暮庵(ふじいぼあん)に教えを受け、後に大坂の篠崎松竹の門を叩いているのだ。

 江戸後期の日本社会は、すさまじい人的ネットワークの張り巡らされた、実にエキセントリックな社会であったことが浮かびあがってくる。興味が尽きることがない。

 

楽曲「野道の花よ」

 藤江小学校に赴任してはじめて、私は山路機谷のことを知るのだが、赴任する3ヶ月ほど前、ある日の夜、ギターを抱えていると、懐かしいふるさとを思うようなメロディーが心の中から沸き上がってきて楽譜に起こした。

 これ何だろう?と思いつつ、歌詞を探そうとするのだか、どうもぴったりの言葉が思いつかず、そのままにしておいた。

 藤江小学校に赴任し、山路機谷のことを知り、しばらくしたある日、いろいろ山路家のことに思いを馳せていると、そのメロディーが心の内で渦巻くように思い出されて言葉が寄り添い一曲の歌になった。それが「野道の花よ」である。

 

♪「野道の花よ」

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