ホタルの里の歌物語の途中ですが、「わがふるさと内海」という歌を臨時で挿入します。(^_^)
2年ほど前から、福山市の西南、沼隈半島の南端に位置する内海町(田島と横島という二つの島が1955年に沼隈郡内海町として町制施行された町、2003年に福山市に編入)の小学校に勤務している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%B5%B7%E7%94%BA_(%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C)
2年ほど経ってようやく内海町の全体的イメージを心の中で捉えることができるかなと思われるようになってきたこの11月の末、やっと(?)一曲の島全体を地理的歴史的に見据えたかのような歌が心の中から現れてきた。それが「わがふるさと内海」。
私は福島県の郡山市(鶴見坦:つるみだん,というところ)に生を享け、幼稚園前に福島市の森合:もりあい,(信夫山:しのぶやま,の裏手北側の地域)の長屋のような住宅に引っ越し、ほどなく幼稚園に上がるとき野田町(現在須川町)を流れる川(・・・阿武隈川の支流の荒川、当時はみんな須川と呼んでいた)のすぐ近く、須川神社の隣の小さな借家に移転した。(須川神社はその後火災で消失し、現在はアパートが建っている)
須川町には2年生まで住んでいたが、父の仕事の関係で、小学校3年生になるとき、青森県の八戸市に引越した。言葉や気候、生活風土ががらりと違う世界を目の当たりにして、一種のカルチャーショックのようなものを受けたが、何よりも私の中に強烈に「ふるさと」というものを思う思いが胚胎されたと思う。どこにいても、どこに住んでもそこを自分のふるさとと見なし、感ずることができるかという、ある種挑戦的な思いが私の中に宿るようになったようである。「住めば都」という諺があるが、自分が置かれた場所で、自分なりの花を咲かせようという、前向きの思いと言えるだろう。その思いは父から受けついだものと思っている。
その思いの原型は生まれた福島に対する思いにあると言える。生涯福島は私の記憶から消えることはないだろう。私の先祖は本家のおじさんによれば、伊達政宗のお父さん、伊達輝宗の側室とのこと。伊達家の本家の家紋が「笹に雀」であるが、野崎家の家紋は「竹に向かい雀」という家紋である。伊達家の分家により愛媛県の宇和島にあったが、江戸時代福島県の西白河郡にいた遠縁の野崎氏を頼って(?)移動し、一時期福島県の会津の近く、猪苗代湖畔に居留していた記録があるらしい。
その後その野崎氏は、西白河郡に先に定住していた遠縁の野崎氏と合流し、西白河郡の東村(現在は白河市東町)、釜子(かまのこ)という地域に定住するようになった。定住してから15代ほどになるらしいが、もともといた野崎氏と、新しく移動してきた野崎氏は、緩やかな地縁的血縁的共同体「野崎まげ」(地方によっては「まき」と呼称するところも)を形成して土着するようになったという。
もともと東村に定住していた野崎氏は、東北地方における源氏と藤原の戦い(前九年の役、後三年の役)の際、源氏側として戦い、敵味方の戦没者を弔うために東村、釜子に定着するようになったと伝えられている(東村は源氏と藤原の激戦地であったらしい)。私の家系は村の中ほどに位置している「長伝寺」という曹洞宗のお寺の檀家として村の庄屋として尽くしてきたようである。
そんなこんなが、私の「ふるさと」というものに対して持っている原体験的な世界なのだ。いつもなんとなく潜在意識の中で「ふるさと」というものを試行錯誤で追い求め、歌という形にしようとして人生を見つめてきたといえるのではないかとも思われる。
さて、「わがふるさと内海」の歌詞をここに載せてこの臨時便を閉じようと思います。(^-^)/
「わがふるさと内海」
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
田島と横島が手を携えているよ
田島と横島が口づけをしているよ
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
海と共に生きてきた島人の心
海風の光の中に輝いている
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
田島と横島が手を携えているよ
作詞・作曲 2021/11/23 historyninjin
追記
ふるさと随想
ふるさとを幼くして離れたという経験から、私はおそらく人一倍「ふるさと」を意識するようになったのだろう。上記で「自分が置かれた場所で、自分なりの花を咲かせようという、前向きの思い」と書いたが、そこに至るにはある長いプロセスがあったと言うことができる。はじめからそのような前向きの見方ができていたわけではない。そこには、もう1つ逆の観点から、ふるさとを失った者が失ったふるさとを求めて彷徨う世界を随分長い間彷徨ってきた世界があったと言うことができる。ちょうど幼くして親を失った者が無意識のうちに親を探して彷徨う世界と似ている。
私はかつて、ふるさとを持っていてそのことを意識することもなく生きている人を見ると、とても羨ましく思ったものだ。同時にふるさとに住んでいながらふるさとのことを知らず、関心も持たない人を見ると、不思議で仕方がなかった。よく、それで生きていられるものだと思ったこともある。現在はそれらの全てを、「ま、そういうこともあるさ」と思えるようになってきた(かな?)。(^_^)
ふるさとを失ったことを、祖国を失ったことになぞらえて見てみよう。とてつもない世界(比較を通り越した真に理解するのは困難な世界)がそこにはある。中国共産党によって祖国を失ったウイグル(東トルキスタン)に関心を持つようになったのも、そのことと関係があるかも知れない。
朝福島駅から各駅停車の蒸気機関車に乗って10数時間、真っ暗な深夜八戸駅(当時は尻内駅)に着きタクシーに乗って30分ほど走っただろうか、日計(ひばかり)というところにある新しい借家に着いた。冷たい布団に身を横たえた日(1963年3月27日)、涙が止めどなく流れた。私は声を圧し殺して泣いた。あの時のえもいわれぬふるさとを失った悲しみと孤独の世界は言葉では語れない。その思いとは比較にならない胸の張り裂ける思いを、ウイグルの人々は日夜抱き続けているだろうことを思うと、切なさで胸が苦しくなる。
ふるさとは遠きにありて思うものという室生犀星の歌があるが、文学的世界でとどまるならまだしも、その次元ではとどまらない過酷という限界をとっくに越えてしまっている悲惨な歴史的事実を前に一体どうしたらよいのだろうか・・・私はいつもそう考えてしまう。
下記はウイグルのある刑務所の壁に刻まれた詩に曲をつけた「わたしの祖国」です。お聞きください。
https://ninjinmusic.hatenablog.com/entry/2021/08/16/093648