内海大橋を上空から眺めた写真です。
昨日(2022年5月28日)、郷土の詩人、葛原しげるの志した「童謡の心」を受け継ぎながら、詩と音楽に親しむ集いを地域の方に向けて催している「童謡を歌おう会」に、教え子と一緒に参加した。
ところで、葛原しげる自身は当時、明治末ごろから大正を経て昭和にかけて創出されるようになった児童文学運動のひとつである童謡について、一般に童謡という言葉でその文化的な運動が創始されたのだが、そのような運動に童謡という言葉を使うことに実はひとつの疑問を投じ、問題提起をしていたことを知る人は少ない。童謡、すなわち童(わらべ)の歌謡という程度の解釈では的外れで不十分だというのだ。
葛原しげるの「童謡論」の主旨は簡潔に言えば「童心を童語をもって、物事の本質をずばりずばりと言い表したもの」ということになる。音楽が寄り添ってもよく、寄り添わなくともよく、童心を表現する「ことだまの世界」を志向したものと、私は受け取っている。
その主旨から言うならば、いわゆる「童謡」は、歌(歌謡)の世界に偏り、情緒的かつ芸術性を求める大人の文化ではないかと言うのである。一昨年亡くなられた葛原しげるのお孫さん、葛原眞さんと何度か一対一で話したことがあるが、葛原眞さんが亡き祖父について語ったことを私は今でもはっきりと覚えている。
元服部小学校の教え子、男子2人のチームと選んだ曲は「彼岸花」。元内海小学校の教え子、女子2人のチームで歌おうと決めたのは「わがふるさと内海」。会場に集まった70人ほどの方々の前で披露させていただいた。
私は私のチームのことを勝手に「にんじんファミリーチーム」と名前をつけて、一人で喜んでいるのだが録音を聞いて、ちょっとギターが緊張気味でぎこちない演奏だったなと反省している。(@_@) 今まではTくんと私の二人三脚だったが、今回はその裾野が広がって2チームになったのでちょっと気負いすぎたかな。(^^ゞ
少し早めに集まってロビーの片隅で、わいわいがやがや賑やかに音合わせ、お子さんを会場まで送ってくださったお母さんたちの協力あってのこと、とても感謝している。音楽が繋ぐ心の絆がこれからも美しく長く続くことを願っている。
(^-^)/
赤い花たち
土から出でて一日(ひとひ)もたがえずに
咲き出した
赤い花たち
次から次に
群れて誇らしげに咲き出した
彼岸花たちの艶(あで)やかさ
真っ直ぐに伸びた潔(いさぎよ)さ
青い空に向かって咲いている
ひた向きな赤い花
彼岸花たちの艶(あで)やかさ
真っ直ぐに伸びた潔(いさぎよ)さ
青い空に向かって咲いている
ひた向きな赤い花
赤い花たち
土から出でて一日(ひとひ)もたがえずに
咲き出した
赤い花たち
次から次に
群れて誇らしげに咲き出した
◆3年ほど前にTくんも入って歌った彼岸花です。
https://historyninjin.hatenablog.com/entry/2021/12/05/125600 (^_^)
わがふるさと内海
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
田島と横島が手を携えているよ
田島と横島が口づけをしているよ
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
海と共に生きてきた島人の心
海風の光の中に輝いている
青い青い海と空に抱かれている
瀬戸の海に真珠のように浮かんでいる
緑深き内海の島わがふるさとよ
田島と横島が手を携えているよ
◆こちらは「わがふるさと内海」の島人バージョンです。
https://historyninjin.hatenablog.com/entry/2022/03/28/045127 (^_^)
◆2015年に書いたものだが葛原しげるの童謡に関する考えを下記にしるしておきます。◆
葛原しげるの「二日月」という詩(出典は詩集「雀のおやど」昭和30年発行)をまず紹介します。
「二日月」
二日月 ほそい月
細い 細い 糸のよう
さわると きれそう なくなりそう
星の子どもは まだ出ない
とんぼよ とんぼよ
さわるなよ
二日月 ほそい月
細い 細い 針のよう
さわると いたそう さされそう
星の子どもは まだ出ない
こうもり こうもり
さわるなよ
私は葛原しげるの童謡論は、今後これからも研究の価値があると思っている。研究というより、それを拡大継承していくことが必要かなと考えている。
葛原しげるは、
童謡とは、曰く、児童の生活からおのずから生まれたもので、童心を童語でリズミカルに表現したもの (メロディーがついていなくてもかまわない) 。自然界の神秘をも、人間界の不思議をも、すなおに感受しては、平明単純に、端的に、ずばりずばり表現したもの。明るく、楽しく、美しいもの。
、、、と定義して、西条八十と並び称されるほどの詩の才能を持ちながら、ついに芸術家としての道は捨てて、生涯教壇に立ち、教育者として生涯を終えた。
早稲田閥で固められた日本童謡史編纂のほうからはそのような経緯で疎んじられ、低い評価しかなされず、コマーシャリズムの世界には全くと言ってよいほど取り上げられることがなかった・・・というのが実際だったようなのだ(葛原眞氏の話)。
つい最近だが、10数曲葛原しげるの詩を選んで気の向くまま作曲したが、その詩の斬新さ、新鮮な感受性に触れ、現代でもこれほどの詩情を持っている人はいないのではないかと私は思っている。
10数年前、金子みすゞの詩が目にとまり、詩集を借りてきて読み始めたら、そのまま空からメロディーが降ってくるような感覚を覚え、一晩に10曲ずつぐらい、二日間続けて明け方まで作曲したことがあった。
さすがに二日目には疲れて、深夜にもうここでやめようとしたら、誰もいない部屋の後ろに人(うら若い女性)がじっとこちらを見ている気配を感じたことがあった。私は単純に金子みすゞなのだろうと思っているが、こわいともなんともなく、ここで一旦やめるけどみすずさん、あなたの事覚えてますよ、また詩に作曲してあげますよと心のなかで唱えたら、静かにいつの間にかいなくなっていた。
その金子みすゞの詩は、どこかに教訓めいたもの(詩人としての解釈)がさりげなくちりばめられていて、所謂「詩人の目」で書かれているのだが、葛原しげるの詩は(みごとなまでに)児童の目線で書かれている、と私は直感する。
金子みすゞの詩も素直でとても良いのだが、詩人の目ではない目線(従って文学的というカテゴリーにあてはまらないことが多々ある)の葛原しげるの詩に出会って、私は「詩の原石」に出会ったように思った。
そのような評価が今後社会に広く受け入れられるようになるか全く未知数だが、私はこつこつとそこに焦点を当てながら創作活動をして行こうと思う。
教育者に徹した葛原しげるを「郷土の誇り」としてその音楽論(童謡論)を正しく継承しシェアして行きたいと思っている。
(*^^*)
2015/3/12
最後にひとつ、葛原しげるの詩で最も童心で自然を見つめていると私が感じる詩を紹介して、この稿を終えようと思います。
「お月さん寒いでせう」(昭和10年発行、葛原しげる童謡集より)です。
お月さん高い空で寒いでせう
さっき着ていたやはらかさうな
雲の外套(がいとう)脱いだまま
風に吹かれて寒いでせう
お月さん澄んだ空で寒いでせう
私の襟(えり)巻き毛糸の帽子
巻いてあげましょ星の子どもよ
取りにおいでよ寒いでせう
◆二日月
◆お月さん寒いでせう